心についてのメモ書き(14)-底を打つ

底を打つということ

私が企業の駐在員として外国で暮らし始めた頃、言語(英語)には苦労しました。

数ヶ月の間職場で電話をとることは、なによりの恐怖でした。


しかし、ある日私のマンションで電気系統が故障したのかあるいは別の原因なのか、エアコンが停止してしまったのです。

とても冷房無しで生活できる環境ではないところなので、すごく困りました。

あー電話して修理を呼ばなくては、と思うものの、苦手の電話できちんとこちらの話を伝えねばなりません。


今となっては、何を話したか全く覚えていませんが、必ず相手に家まで来てもらわねばという切迫感とか、相手ののんびりした対応に苛立って大声をだしたことは覚えています。

結果としては、すぐに修理に来てもらって、数時間後エアコンは復旧しました。


実は、その修理を依頼する電話は、私に外国語習得の壁を超えさせるものでした。

私はこの時の感覚として今に至るまで思っているのですが、人間どうしようもなく窮地に落ちいった時は、思考するアタマよりも心が前面にでてきて、脳を含む身体全体に点火して総動員し、難局を切り抜けさせる、あるいはその地で生きてゆく能力を身に付けさせる、というものです。


私にとって、外国語の習得は思考力や記憶力でなく、私自身の迫力と言いたいことをなるべくシンプルに伝える単語や言い回し、でした。

そのことが腑に落ちた時から、電話も含め言語で苦労することはほとんど無くなりました。(ちなみに、夢の中で英語を喋るようになったのもこの頃からです。)


この経験に近いものが、スポーツ選手のスランプではないかと考えています。


プロの世界でかなり活躍し、注目もされ、テレビや雑誌に出たりする、一方チームの幹部からの要求も多くなり、レベルの高い他の選手と比較されたりする、あるいはレベルの高いチームに移籍する、

こういう自己陶酔や周囲からの期待感などに一生懸命反応しているうちに、アタマの対応ばかりが先行して、心がついてこない、従って身体がついてこない、つまり思考と心身にズレが生じている、というのがスランプだと私は考えています。


この状態から脱出するために、ハードな練習をしたり、色々なアドバイスを求めたり、メンタルトレーニングを受けたり等、色々試行錯誤すると思いますが、

さんざん苦しい思いを舐め尽くした後で、もう限界だ、という思いが湧いてきます。

俗に言う「底を打った」状態です。


スランプというのは、その期間が長いからこそスランプとよばれるわけですが、その時間には大いに意味があると思います。

つまり、ズレが生じたアタマと心の間に再び接点を作るために、心と身体の声を聞こうとし、そのコンディションを整えるための、またアタマの思い上がりを後退させるための、必要な悩みの時間なのです。


そして、十分にその時間を過ごした時に訪れる感覚が、つまり心身に充分な栄養が満たされた感覚が、底を打つ、という感覚としてイメージされるのです。

この時間を経て、アタマと心身の接点を高いレベルで実現したスポーツ選手が壁を超えたと言われます。


このプロセスは、外国語の習得とよく似ていると思います。

細かいところで違うことは、「底打ち」から壁を超えるまでの期間を言語習得では極めて短時間で通過します、これは生存に属することなので、一気にやってしまうということでしょう。


さて、うつに伴う苦悩の時間、引きこもりの状態なども、私は底を打つための必要な悩みの期間と捉えています。


この時間は、上述のスランプよりも長くなることも多いと思いますが、これはそれだけ人生の根っこに近いテーマが絡んでいるからです。

今までの人生でのアタマのやり方、心が言いたかったこと等をよくよく反芻してみる時間や、疲れてしまった身体をゆったり休ませる時間が必要なのです。

また、まさに生存に関することでもあるので、ある段階ではそのプロセスが加速されることもあると思います。


悩みが底を打つと、人間は必ず自分の足で立とうとします。

また、その人の生活に必要な事柄を習得し、生きていこうとします。

これは、スポーツ選手でも一般の人でも同じことです。


そんな意味で、周囲の人は、その人の悩みの時間を大切にみてあげること、中途半端な時期に介入してその人に依存心をもたせないこと、一旦底を打ったら適度な距離で必要な支援をすること、が大切だと思います。


2015年10月2日