サラリーパーソンの護心術−曲がり角②

曲がり角②

(承前)

 

私はたまに見たのですが、会社を定年で辞めた後も、元の職場にわりと頻繁に顔を出したりする人がいます。

しかも、役職が上の人ほど、よく来ていた印象があります。

 

会社にいる人達も、つい最近まで幹部だった人に対し、そう邪険にできないので、世間話につきあったりします。

 

しかし、定年後会社に顔を出す人には、一様に寂しさや所在無さを感じます。

おそらく、会社無しでどうやって生きていったらよいか分からなかったのでしょう。

つまり家住期の次の「林棲期」の概念を持ちあわせていなかったのです。

 

また、それは会社で働いているという自己イメージを、退職という現実に即して、変更できていない、ということです。

幹部だった人であれば、秘書が付いて個室を持っていたり、会議でも宴席でも周囲から持ち上げられたりして、VIP気分を味わうので、居心地は良かったのでしょう。

 

でも、現実の人生の舞台は、次の段階に進むもうとしている。

新たな自己イメージを必要としているのです。

 

そんな可哀想な元幹部おじさんを見たか見ないかは分かりませんが、たぶん自分もそれと五十歩百歩。

おそらく、40〜50才位に理由なき不安を感じるサラリーパーソンは、このままの生き方を続け、やがて死んでいくことへの不安を本能的に感じている

そんな可能性がかなりある、と私は考えています。

 

つまり、会社生活という家住期から林棲期ひいては遊行期への移行を考え始めたい、と無意識に思っている。

でも、現代日本では人生のモデルが家住期までしか提示されていないので、困っているのだと思います。

 

一方、現代の日本では、経済効率が最優先されますので、必然的に家住期、つまり労働力があってGDPに貢献し、税金を払っている人に、有形無形の社会的資源が集中しています。

 

学生期は、そのための準備期間とみなされています。

たいていの親御さんは、大学は良い就職先を見つけるためのステップに過ぎないと考えているのではないでしょうか。

 

しかしながら、林棲・遊行期にあたる言葉は見当たりません。

「リタイア」?「老後」?

これらの言葉には、現象を評論しているだけで、主体性がなく宙ぶらりんという感じがあります。

つまり家住期サイドからしか見ていない。

 

テレビやネット上では、盛んに◯◯検診や医療保険を宣伝したり、認知症予防のキャンペーンをしたりしています。

これは、人達の間に老いや死に対する耐性がないことに目をつけ、その恐怖を煽って、経済活動に利用しているともとれます。

 

しかし死は確実に訪れる。

 

そして、その前に会社を離れる時期も確実にくる。(続く)

 

2016年2月1日