サラリーパーソンの護心術−曲がり角③

曲がり角③

(承前)

 

家住期から林棲期へどうしたらスムーズに移行できるのか。

 

私が思うに、「〜すべき」とか「〜しなければいけない」という義務的な価値観を減らしてゆき、

快/不快という、自然な自分自身の感覚に基づいて行動する場面を増やしてゆく、とだと思います。

 

「家」的な、つまり社会的な制度のなかに「住」む度合いを低めていき、「林」つまり自然の摂理にしたがい「棲」息する感覚を大切にしてゆく。

 

例えば、

(義理でだしている)会社関係者への年賀状を全て止める、

(恒例だから出ている)会社関係の飲み会への出席を止める、

遠慮していた年休取得を多めにとってみる、

などなど「会社なんだから、これはしなくてはいけない/してはいけない」と思っていたもののうち、止めていいと思えるものはやめてしまう。

 

その決断の裏には無意識ではあるが、必ず快/不快の判断が働いています。

おそるおそるではあるが、迷いながらも実行してしまう、そんな時には自らの内なる自然が「Yes」と言い、自分にとっての心地良さを確保しようとしています。

 

小さいことのようですが、実際にやってみると、従来の会社生活に対する見方が確実に変わってくると思います。

そして、そんな行動を徐々に増やしてゆく。

 

すると、色々な物事に対し、快/不快の基準、「〜しなければいけない」という社会的な基準、を使い分けできるようになってきます。

単に快/不快を表に出すなら幼児と変わらないですが、快/不快を核にもちながらも、その感覚を踏まえて、周囲と折り合う為に社会的なツールを駆使できる、というイメージです。

 

そうするうちに、心のなかで、会社の占める割合が他のことよりも小さく感じられるようになる、といった感じにもってゆければ、それが家住期から林棲期への移行です。

会社以外の「他のこと」が、その人独自の林棲期的な生き方の土壌となるわけです。

また、それは家住期から得たノウハウと独自の生き方の融合=知恵の源泉でもあります。

 

また、仮にある人がそんな心境に至り、(ヨーロッパでは一般的なようですが)40代で大学に入って勉強することにしたら、林棲期と二番目の学生期を迎えるわけですが、四住期の各々四つはシンボルでもあるので、どれか一つに囚われる必要もないのです。

 

家住期のみに生きている人よりも、マルチプルに色々な四住期を生きている人には味がありますが、そんな人達に共通するのは、多少なりとも苦悩して一旦自らの内面を見つめ、自分だけの生き方を見出していることです。

つまり、本当の意味での林棲期を必ず経験してきている。

 

そして、林棲期の中身は、決して他人から教えてもらえるものでなく、自分自身で経験し、感じ取っていくしかないのです。

世間とか会社に教えてもらえるものではないのです。

 

最後の遊行期については、それぞれの人がそれぞれの死への臨み方を林棲期において考えていると思います。

林棲期は、生き方をシフトすると同時に、自らの死を見つめる、遊行期をどう過ごすか考える時間でもあります。

死は究極の個人の発現なので、これ以上言うべきことは私には見つかりません。

 

私個人として感じることは、どうも死んだ後にもなにかありそうだ、ということです、大いなる何かに帰ってゆく、というような・・・。

この感覚だけで、生き方がだいぶ変わってきました。

(以前書きました「チベットの生と死の書」という本の紹介もご参照ください。)

 

以上、「四住期」という考えをもとに書いてみました。

サラリーパーソンの40〜50才位の時期は、本当の意味での人生の曲がり角なのだと思います。(終)

 

参考文献:生老病死の心理学/吉福伸逸著 春秋社 1990年

 

2016年2月6