心理のよもやま話-苦悩の果実(続)

苦悩の果実(続き)

「四十にして惑わず」という言葉がありますが、近代・現代においては、むしろ40歳前後は大いに惑い、それまでの生き方を見つめ直して、本来の自己を建てていく、そんな時期だと思います。

人によってはうつ状態になったりしますが、それは決して恥ずかしいことでも何でもなく、オリジナルな自分を生きるための「産みの苦しみ」であり、そういう「真っ当な悩み」に直面することのできる自分の心に誇りを持ってさえよいと私は考えています。

 

さて、フロイトは当時(1800年代末)、カウンセリングというものが存在しなかった(なにしろ本人がカウンセリング(精神分析)を発明したのですから)ので、自らの葛藤について自己分析という形で克服をしてゆきます。

 

「40歳から43歳にかけての自己分析によって、青年期の自己選択に対する惑いは克服された。パン(お金)よりもタンポポ(愛情)を選んだ結婚、実利よりも真理を選んだ学問の道、(中略)父親コンプレックスをのり越え、自己の生き方に確乎たる肯定感を獲得したのは、彼の精神分析創始の歩みと、内面的にも時間的にも全く平行している。」

(前掲書125ページ)

 

その自己分析のポイントは、親から、あるいは集団(社会や世間)から無意識下に刷り込まれた道徳や倫理を意識に上らせて、それを自分が受け入れ可能かどうか検討し、受け入れられないなら自分の道は自分で切り開く決心をすることでした。

 

「フロイトの自己分析は、同性愛の蔭に抑圧されていた権威的な父親(又は父親的存在)の去勢者としての実態を自覚し、この自覚を介して、集団幻想に対する「個」としての自我を確立する過程であった。」

(前掲書139ページ)

 

そういう自身の葛藤とその克服の過程で、無意識に刷り込まれた父親由来的な価値観・概念をエディプス・コンプレックスと名付けて、その自分自身の分析経験で得られたものを患者にも適用し治療してゆくことで、自分のうつ状態の克服と新しい精神世界の開拓を同時に行ってゆきました。

フロイトの苦悩そのものが、現代につながる精神療法・心理カウンセリングの起源となったわけです。

 

ユングは、

「1912年(37歳)頃より、ユングの無意識は凄まじい動きを開始していた。彼は不可解で強烈な幻像や夢に襲われ続け、「科学的な本はさっぱり読めなくなってしまう」ような状態におちこんでしまう。ここで彼はチューリヒ大学の講師の座を投げ棄ててしまい、もっぱら個人で彼自身の無意識の世界と、患者の語る夢や妄想などの世界に直面することを決意するのである。大学教授になることを夢み、しかも、ブロイラー教授の弟子として将来を約束されていた彼にとって、大学人としての経歴を棄てることは、相当の決心が必要だったことと思われる。」

(前掲書94ページ)

 

ユングは、おそらくは現代でいうエリートコースのようなそれまでの生き方を一旦白紙に戻さざるを得ない状態になって、苦悩が始まります。

しかし、その苦悩のなかで、自分や患者の描くマンダラに古今東西の人類共通の無意識的な原型が存在することを見出し、自らの生き方(分析心理学の創始)を発見してゆきます。

 

ちなみにユングの苦悩が始まる1912年頃に、心理理論についての意見の相違が原因で、ユングはフロイトと袂を分かちます。

このフロイトとユングの生きていた時代や雰囲気を描いた映画に「危険なメソッド」があります。

正直映画そのものの質はあまり高くないと思いますが、当時の心理療法家の雰囲気をイメージするには一助になると思います。

 

次回は夏目漱石と近藤章久を書きます。


 

2016年7月22日