心理のよもやま話-苦悩の果実(続々)

苦悩の果実(続きの続き)

夏目漱石は、帝大(今の東大)を卒業した26歳ころから軽いうつ状態にあったようですが、ロンドンに留学した翌年の34歳の時に重いうつ状態になり、下宿にひきこもるようになります。

 

大学卒業後くらいの心境をこう語っています、

「私はそんなあやふやな態度で世の中へ出て、とうとう教師になったというより、教師にされてしまったのです。(中略)腹の中は常に空虚でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかもしれませんが、何だか不愉快に煮え切らない漠然たるものが至る所に潜んでいるようで堪らないのです。」

(前掲書より)

 

これは、まさに現代においても、親から、いい大学からいい企業へという感じで育てられ、会社に入って数年(数十年)経って、ある日うつになる状態とそっくりです。

 

しかし、ロンドンで苦悩に沈むなか、

「私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足しにならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が分からなくなって来ました。

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない浮き草のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。」

(前掲書より)

 

漱石は、今までは周囲や自分までも西洋の真似ばかり、他人本位の生き方であったことに気づき、「自己本位」の生き方、文学を築こうと決心します。

するとうつ状態は解消してゆくのでした。

*順番としては、私はこの「私の個人主義」を読んだ後「フロイトその自我の軌跡」を読んだのですが、自分を見つめ直す(見つめ直さざるを得ない)雰囲気とそこから素晴らしい仕事を生み出すところがよく似ているなと思いました。

 

近藤章久(1911年生まれ)という人の人生は面白く、一家で映画館を経営したり、自身は旅行会社に勤めたり、貿易会社経営、戦争中は徴兵され命を落としかけたりして、戦後けっこう歳がいってから精神科医になり、心理カウンセリング専門の医師として1999年に亡くなるまでそれを続けました。

 

戦前、日米の関係が悪化しつつある時、船が着けば大儲け、アメリカが海上封鎖して船がアメリカに着けなければ大損、という肝油の貿易で、近藤は運良く大金(今の5千万円位)を手にします。

 

しかし、そのお金を机の上にして、

一隻一隻の船がニューヨークに着くまで眠れないほど心配したことを思い出し、その結果がこれかと思った。そうしたらものすごい虚無感に襲われました。」

(前掲書92ページ)

 

この頃(昭和15年頃)から4年ほど、彼はうつ状態になってしまいます。

 

そして昭和19年(33歳)のある日、

「ある晩のことでした。十時頃でしょうか、寝ていたら「坐れ!坐れ!」と聞こえるんです。あれは絶対的な命令です。本当に腹の中に響き渡るような、ものすごい圧力がありました。(中略)何時間たったかわからないですが、坐っているうちに朝になった。(中略)垣根のところに野菊が一本咲いていました。それにサーッと光が照らして来て、その菊の花が燦々と輝いた。ガーンと、僕は打たれたんです。「一切草木悉皆成仏、況や汝においてをや」菊と共に成仏するという感じ。

(中略)

今まで僕はなんて馬鹿なことを考えていたんだろう。(中略)涙がボロボロ出て、これでいつ死んでもいい、生きてきた意味がわかったと思いました。(中略)ひとつひとつの木に向かって手を合せて、有り難いと思って、ただただ頭を下げて感謝しました。」

(前掲書93ページ)

 

これは、フロイト、ユング、漱石のような、自己の内面にうんうんと唸りながら向き合って、時間をかけて自分を見出してゆくスタイルとはだいぶ違うようですが、本質は変わらないと私は思います。

近藤の場合は、理性よりも心の方が先に覚醒した感がありますが、戦後は、理性、具体的には仕事、しかも(フロイトや漱石のように)自分の一生をかけるに足る仕事を見出してゆきます。

但し、それにはうつ状態の時の苦悩の経験が生かされているようです。

 

「自分が今まで精神的に苦しんだことがあります、自分は何のために生きていくのかとか、出生の本懐は何だとか。そういう人間の苦しみを少しでも減らすために何かしたいと考えて、医者になろうと決めた。そのために命を与えられたんだと思ったのです。」

(前掲書113ページ)


このように、4人は何も特別でなく、自分の苦悩を自分で生きて、自分で対処していったわけです。

我々と寸分違うことなく。


2016年7月29日