心理のよもやま話-「あ、そうか!」体験へ③自主性

「あ、そうか!」体験へのプロセス③自主性

さて、周囲の無理解、ままならない自分の思考や行動など、苦い経験を経て、「今のままのやり方ではどうにもならない」とある種の諦めをつけた時、(a)は後退し、(b)が始動します。

この時点では、苦しい状態の原因であり、今まで従ってこざるを得なかった(a)や真の自己たる(b)の正体は掴めていないものの、本人は無意識のうちに、もはや(A)でなく(B)に従うようになります。

(但し、本人の感覚としては未だに五里霧中だとは思いますが。)

 

その有り様は、(この時点では、理屈が分かっていないので当然ですが)考えや知識等の理屈抜きの、必死さとか粘り強さの雰囲気が前面に出てきます。

背水の陣、といった趣です。

 

行動力が湧いてきて、自分の納得ゆくまで医療機関を探したり、悩みの原因を調べたりします。

本人は意識していませんが、人任せでなく、自分のことは自分で責任をとって対処しようということが行動で現れてきます。

またその過程で、必然的に「ハラが座る」とか「腑に落ちる」という感覚を身に付けていくように思います。

 

これこそが「自主性」です。

今までは考えや行動の物差しを親や世間等の人任せ((A)任せ)にしていたものを、自分((B))のなかに取り戻したということです。

 

私は、不思議だな、というか感心しますのは、こういう窮地に陥ったところから抜けだそうとする人間は、本当に理屈抜きで、試行錯誤しながらも自分に合った解決方法を自分の力で見つけ出せる力があるんだということです。

 

これは言葉では説明不可能ですが、そんなどうしようもなく必死な時には、信頼できる医師やカウンセラー等に出くわすということです。

無意識の深いところの何かに、幾多の情報や人間達から出会うべき人を判別する力があるのでしょうか。

 

こんな時期には、精神分析であれ行動療法であれ、効果は大きいものとなるでしょう。

本来の「自分」を形にし始めたことによって、精神分析の肝である、内的対話の準備が整いつつあります(内的対話の為には(a)のみならず(b)が自立しないと、(a)と(b)間の対話にならないのです)。

また、本人がやり方に納得しさえすれば、意欲は湧き始めていますから、行動療法で生活を改善してゆくことが可能になってきます。

 

2016年9月13日