心理のよもやま話-「あ、そうか!」体験へ④対話

「あ、そうか!」体験へのプロセス④対話

すでに「ハラが座」って、本来の自己たる(b)が自主性を獲得していますが、仮りそめの自己(a)との対話をし、(a)と(b)の再構成をしなければなりません。

そのためには、(a)は(a)、(b)は(b)と明確に区別して認識する必要があります。あたかも自分、と、他人、のように。

実際、親等「他人」の価値観で生きてきたのですから、自分のなかの「自分」の部分と「他人」の部分を仕分けして認識するということです。

そうしてはじめて正体不明の(A)と(B)に惑わされなくなるわけです。

 

しかしながら、自分のなかに「二つ」の自分があることなど、通常では思いつきはしないでしょう。

 

その認識に到達する手立てとして考えられるのは、

 

ひとつは、古代ギリシア等からの哲学対話、ロゴス(対話)等によって、自分と他者ふたつの考えを受け入れるおおらかさ・辛抱強さ、お互い比較検討してより妥当な見解にゆきつけるタフさ。

そんなことを訓練して身につけている場合です。

 

ふたつ目は、仏教など古来からの知恵です。

自力と他力、自然(じねん)など自分以外の大いなるものを受け入れる容力が育っていること。

ちっぽけな自分((a)にあたる)と大いなる自然・仏((b)にあたる)と、自分を相対化して見る目を持っている場合です。

 

このふたつは、心理カウンセリング以前の、というか、カウンセリングを包含した大いなる人間の知恵で、こういう自らの精神に適用できる実用的なちからをもつことが本当の教養なのでしょう。

人生の過程で少しでもこういう雰囲気に触れたことのある人は、自らの力で(a)と(b)の個別認識力を獲得するかもしれません。

しかしながら、こういう「体力」のある精神活動を養えない、人間の見方が狭くなってしまった社会、といったものが、そもそも現代の人間の精神的苦悩の原因でもあるのでしょうが。

 

みっつ目は、精神分析などの心理学です。

構造としては、カウンセラーとクライアント((b)の部分)がもうひとつのクライント((a)の部分)を協同して検討する趣です。

 

哲学的対話、宗教、心理学、いずれも本質は同じです。

精神の危機にあるその人の全人生・全経験を動員して、内的対話に辿り着くことを願っています。


2016年9月25日