生老病死についての私的体験⑤
父が介護付き老人ホームに移った後、私は母と同居して、彼女の世話をしていました。
その老人ホームの夫婦部屋が空き次第、母がそこに入って父と一緒に生活する予定にし、それまでの間おそらくは数ヶ月、私が母の面倒をみることにしたのです。
母は認知症であり、精神的にも不安定でした。
一回の食事をするのに2時間位かかり、お風呂に入ることをいやがって服を脱いでもらうのに30分以上かかりしました。
さっきまではいていた靴下をごみ箱に捨てていたり、数日も着た下着や服をタンスの引き出しにしまっていたりもしました。
母が出た後のトイレでは、便器の周囲の床に尿がたまっていて、しばしば雑巾で拭かなくてはなりませんでした。
また、頻繁にドアを開けて外に出ていこうとし(母は30メートルも歩くと足元がふらつき一人での外出は転倒の危険がありました)、真夜中に「布団のなかに誰かがいる」と言って私の寝床に来たこともありました。
はじめのうち私は、午前は読書をしたりこのブログを書き、午後はジョギングをするという自分の生活のペースを守っていました。
しかし、昼夜問わず常に色々なことに気をかけているので、睡眠がこま切れになってしまい、体調が徐々に悪くなってきました。
そのうち私の太ももの裏一面に痒みを伴う湿疹ができてきました。
それは、赤黒く少し熱を帯び、常に体液を滲ませていて服を濡らして気持ちが悪く、これがまた睡眠の障害になり、そのうち私は心身共にかなり苦しい状態になってきました。
夜毎、なんでまた太ももに湿疹ができるのか、考えてみました。
そして、その症状はおそらくは「自分の根幹が崩れてきていることへの心の警告」だと思うようになります。
私は、車や電車には極力乗らず、1、2キロなら歩く、10キロ位なら自転車で行ってしまいます。
その方が気分が良いのです。
他人には些細なことかもしれませんが、自分の力、つまり自分の足でどこかに辿り着くことに心が満足を覚えているのだと思っています。
また、ジョギングも含めて、そんな具合に一日一回は運動をしているので、冬などは寝る時も太ももが暖かくて、それが心地良く、すぐに眠りに入れます。
そんなことの中心的な役割を担っているのが、太もも(木の幹とも言えます)だといえます。
ここで私が言いたいのは、単に体調が悪くなり運動ができなくなりそうだから、太ももに湿疹ができた、ということだけではなさそうだということです。
そういう日常の運動もさることながら、まず生命の基礎となるべき睡眠が脅かされていることがあったと思います。
次に、体調が悪くなって集中力や思考力も無い為、読書をしても全く頭に入らず、読みながら自分なりの思考をノートにするのを楽しみにしていた哲学や仏教の本も進まなくなってきました。
そして、そんな思考の果実と往来・交差する心理カウンセリング=生きた人間との生のセッションもできない・・・。
これらのことは、私にとって自分本来の生き方(根幹)が出来なくなってきていたということだったのでしょう。
それは要するに、私の根幹をなす自分らしい心的な生活が崩れてきていることに、心が太ももという私の身体のエンジン(という比喩が私的にはぴったりくるのですが)を狙って、象徴的なかたち(あるいは心と身体の合わせ鏡のようなかたち)で警告を発してくれたと思えるのです。
「このままでは、あなたの心のエンジンが止まってしまう、「自らの心の足」でどこにも辿り着けなくなってしまう」と。
クライアントの方で、会社のPCの画面を見ても視界に入ってこないといったことを言われる方もいますが(会社での仕事のし方、ひいては生き方に対し、心が拒絶の意志を発していると思われる)、
私の太もものケースもこれと同じで、身体のみならず心を守る為に、心からの警告として、その時その人にとって「象徴的に」意味のある身体の部分に症状が起こってきたものと考えられるのです。
2016年11月29日