生老病死について⑥

生老病死についての私的体験⑥

母と同居して、心身共に辛い日々を送っていた私ですが、ある朝起きると体がかなり熱っぽく、歩くと目まいを感じてふらつくようになりました。

私は、これ以上ここで母と暮らすと自分が倒れる、つまり母と共倒れになってしまうと思い知り、自分を守るためにも、とうとう彼女をショートステイに送り出すことを決断しました。

ショートステイといっても、父がいる老人ホームに空きがでるまでおそらくはひと月前後の長期間入ってもらうことにしました。


彼女を送り出して、久しぶりに自分の家に戻ると心底ほっとしましたし、なによりぐっすりと眠れることが有難かったです。

また、ももの裏の湿疹は二晩も経つと、発熱が収って体液がにじみ出ることもなくなり劇的に改善しました。

それでも、何かどんよりと体が重く、体調は崩れる寸前のところでなんとか小休止しているといった感覚でした。

でもやはり、数年に渡った両親の世話から解放されると思うと、正直いってうれしい気持ちでした。


彼女がショートステイに入って3日目、ちょうど様子を見に行こうと施設に向かっていた私に、施設の職員から連絡が入ります。

「食事も水分もほとんど摂れていない状態なので、明日家族の方が病院に連れていく準備をしてほしい」と。


施設に着くと、母の様子は一変していました。

家では一応歩いていましたし、少しの距離ですが毎朝私と散歩もしていたのですが、今や彼女はぐったりと車椅子に座り、首も安定させられないため、背もたれの高いタイプの車椅子で後頭部をあずけっぱなしで口を開けたままの状態でした。

私のことを認識しはするのですが、会話することもできません。


心配していたことが現実になってしまった、と私は思いました。

40代のときパートの仕事をいくつかしたことはあるものの、基本的には専業主婦であり、なにより依存心の強い母には、誰も顔見知りがいない場所での集団生活は過酷だったのです。

この母の状態は、新しい環境に適応することや反応することを拒否し、自分だけの殻に閉じ籠もることで精一杯自分を守ろうとしているようにも思えました。


幸いにもその日の夕食は最低限の量を摂取できたので、翌日の病院行きは取りやめとなりました。

しかし、その日以降、母の食事量はあまり改善せず、一進一退といった状態でした。

私も一日おきに施設に来て、昼食を食べさせようとしましたが、ほとんど食べない日もありました。


そんな状態が一週間ほど続いた後、またもやほとんど栄養や水分を摂れない日が2日ほど続きました。

私は、母の生命の危険を感じて、病院に連れて行き、点滴をしてもらいました。

そして、医師と相談し、ショートステイを離れて、その病院に入院させることを決断しました。

何よりも母の生命を守ることが最優先だったのです。


入院の決断をした時、私は苦しみました。

母をひとりショートステイに放り出してしまったこと、その結果彼女の精神が崩壊したようにも思えること、

そしてまた、生命のためとはいえベッドに居続けなければならない入院生活、彼女には重荷であろう再度の環境の変化、そんなたらい回しにもみえることを実行しようとしている自分。

一方では、その時それ以外の選択肢はなかった、そうしなかったら共倒れだった、他にどんなやり方があったのかと反芻する自分。

そんなかなり重い葛藤がありました。


その時、私の精神はある程度「メロドラマ」に陥っていたと、今になってみれば思います。

ここでいう「メロドラマ」とは、今ここで起きている現実の問題に直面することを避けて、過去の自分の感情や反応のパターンに引きこもって、現実の問題から逃避することをいいます。

また、パーソナリティ障害等の精神構造にもいえることですが、現実から逃避することで、極端な両極、つまりものすごい快楽か深い悲嘆かといった、どちらかだけに偏った感情のアンバランスの傾向がそこにはあります。


母をショートステイに手放して肩の荷が降りたという思いは、母の生活が今後も日々続くという現実から逃避して、母のことは何もかも忘れて自分の好きなことだけをするという快楽のサイドに行っていた、と思います。

また、その後にきた私の後悔や苦しみは、起こってしまった過去への(実は出口がどこにもない)メロドラマのような悲嘆に溺れるだけの感情だったと考えられます。


しかし、入院と同時に私は、今、ここ、の現実に向き合うことに、目が覚めます。

次回はそのことを書きたいと思います。


2016年12月9日