生老病死について⑦

生老病死についての私的体験⑦

数年にわたった両親の世話から解放されて自分の好きなことだけをやれるんだという高揚感、と同時に、母を崩壊に追いやってしまった自責の念、という私のなかの両極端なメンタリティー。それらがぐるぐると感情を支配し鬱積していました。

実は、こんな快楽と落ち込みを行き来するパーソナリティ障害的な心を、多かれ少なかれ誰しも持っていて、日々揺れ動いているものだとは思います。

しかし、現実によく対応して生活するには、別の視点をもつ必要があると思います。

 

私の心を目覚めさせたのは、自らの自らに対する怒り、あるいは「本物の叱り」といったものでした。

その感情はあえて言葉にすれば「メロドラマに浸っていないで、現実をみろ!」と迫力をもって叱咤しているように感じました。

「本物の感情には問題解決能力がある」旨のことを心理学者のジョージ・トムソンは言っています(「TA TODAY」イアン・スチュアート他著 P.271(実務教育出版))。

メロドラマという「偽物」の感情にひたっていても、実はそれは現実から逃避しているだけで、現実の生活にむすびつく行動は開始されません。

「本物」の感情が動きだすことで、なにかエネルギーのようなものが心に注入されたように感じたのでした。

それは心の深層の部分で生じたように感じています。

深い場所の自分が浅い場所の自分へ流れこんだのでしょう。

 

それと同時にか、直後に起こったのが、私の「理性」が起動しだしたことです。

これはある程度イメージ可能なのですが(それゆえ心の表層の部分で起こったことと想像しますが)、物事を俯瞰する目(私の「理性」)が復活したのです。

俯瞰する目は、偽物の感情に囚われていたアタマ、疲弊したココロを認識しました。

その認識をもとにして、理性(そしてその背後には本物の感情もあるはずですが)は、「彼女は(過去でなく)いま生きている!やれる範囲のことをやるだけでいい」と言っていました、明確なメッセージでした。

こんな一連の心の動きの背景には、母の入院という新たな試練に直面して、どうしようもなく困って、心が底を打って、火事場の馬鹿力的なものが働いたこともあったのでしょう。

 

私の言う「理性」とは、本物のココロと本物のアタマが常に風通し良く連携している状態です。

本来の深い直観をもったココロ、時間軸や行動を制御する冷静なアタマを私は取り戻し、そのことが感情や知性などもミックスした俯瞰の目をもつことを可能にしてくれました。

過去の記憶や極端な感情に留まる単眼的な視点に、過去も含め今ここで生きている人間をも慮る視点を追加し、複眼的な視点になることで、より現実的で精緻な対応ができるようになったのです。

(そのような意味で、上述で「本物」ということには、「囚われ」から一歩引いた相対化、過去に対する今ここ、といった第二の視点軸を持つことがキーになってきます。)

 

私は、態勢を立て直しました。

色々なアイデアを考えながら、母のサポートをするため病院に通うことにします。

次回はそんな日々のことを書きたいと思います。

 

2016年12月18日