ココロを大切にして働く②

何歳まで生きると思っていますか?

前回書きました価値観の体系。

今日は、その中の「お金」を入り口にして、具体的に我々の生活や人生を考えてみたいと思います。

自分の生活や人生に必要なお金をきちんと考える過程で、自分らしい生き方が浮き彫りになってきます。

 

お金のかかる生活をしている人は、そのぶんだけ仕事をしてお金を稼がねばいけません。

しかし、生きるために必要なお金というのは、その人の生き方に応じて、随分と変わってきます。

 

まず、長いスパンで生き方のスタイルを考えてみます。

 

自分が病気になって入院した時のことを心配する人は、民間の医療保険に入っていると思います。同様にがん保険などにも入っている人は多いでしょう。

そんな人は普段から健康に気を使っているので、会社から案内がくる年に一度の成人病検診なども必ず受診しているでしょうし、インフルエンザ予防接種も欠かさない、おそらくは風邪をひいたときの風邪薬など自宅に薬もたくさん持っていることでしょう。

 

健康に気を使うことは必要だと思います。

民間の保険もお金に余裕があるなら、入っておけば安心は出来るかもしれません。

 

ですが、我々はいずれ死にます。

人間は元来無一物、裸で生まれ裸で死んでいきます。

 

民間の保険に入っていても、入院したとき個室に入るだけのお金がでるくらいに過ぎません。

がん保険に入っていても、医者には抗がん剤を勧められて、保険金も日々苦しむ状態のなぐさめに過ぎないかもしれません。

 

あるいは、高齢になって身体が衰弱したとき、病院で人口呼吸器をつけて延命されたり、胃瘻で強制的に栄養を取らされてまで、生きながらえようと思いますか。

具体的には、医療や保険に何を期待できるのでしょうか?

 

つまり、病気について我々が不安を感じて(巧妙に不安にさせられて)払っているお金や日々の心配は、我々が長生きすることをなんら保証してくれないし、ましてや死ぬ寸前まで健康でぴんぴんしていることも全く保証してくれないということです。

 

しかし、病気についての保険や医療の「商品」は巷にあふれている

たいていの人は、けっこうな金額の保険料を何十年にわたり払い続ける。

私は、その現象が、一流大学→一流企業に入れば幸せが約束されると勘違いしている思考と似ているように感じます。

保険や医療を利用すれば死や病の苦しみから逃れられると勘違いしているように思えるのです。

そこには、自らの思考を停止して、なにものかに自分の人生を預けっぱなしにしているすごく不自然な雰囲気がありますし、急き立てられている不安があります(この不安は強迫神経症と同種のものです)。

 

でも当然のことながら、自分の人生なのだから、自ら感じ思考して、自分らしい生き方を生きねば、本当の幸福は存在しません。

人任せ思考は周りに合わせておけばいいので一見ラクなのですが、いずれ自分のココロが悲鳴をあげて、なんらかの心身の異常が表れてきます。

人任せ思考から離れる勇気=自分の人生を歩む覚悟を持つことが必要なのです。

 

ちなみに、私の経験上、心身が健康な人ほど医療や保険にはほとんど無縁です。

健康になってゆく過程で、自分の身体感覚や人生の価値観についての優先順位の感覚が研ぎ澄まされてゆくので、必要最小限かつ良質な医療や保障を賢く選べるようになります。

言い換えると、医療や薬というものは、自ら治ろうとする姿勢(これは自分の人生を歩む覚悟と全く同質のものです!)があってはじめて役にたつもので、補助的なものに過ぎない。従って補助的なものに継続的に多額のお金を払うことはなくなるのです。

 

このように自分の健康に関するお金について考えてくると、老いて死ぬまでの自分の人生を自分で考えるようになると思います。

(前回書きました価値体系の①−2moneyを使って考えると、より大切な上位価値の①Lifeがハッキリとしてくるのです)

長いスパンでみて、自分の人生はどうありたいか、何が一番大切で大切でないものは何かを考える。

その過程で自ずと余計なものは削減されて、人生が洗練されてきます。

そして、必然的に、健康には自分らしい人生を送ることが何よりの「保険」であること、実際の保険は基本的には健康保険で充分であること等が明らかになってきて、人生がシンプルになり始めますし、シンプルな生活にはお金もかかりません。

 

次回もお金と人生や仕事の関係について書きます。


2017年1月23日