ココロを大切にして働く⑩

まとめ編その2‐大多数のサラリーパーソン

<B:大多数のサラリーパーソン(要注意水準)>

 

人生

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生き方  仕事

(ココロ)(アタマ)   

 

日本のほとんどのサラリーパーソンの心理状態は、こんな感じではないでしょうか。

 

ちなみに、精神の不健康さの度合いに応じて、病態水準という大まかな分け方があります。

重い順に、精神病水準、人格障害水準、神経症水準といいます。

上の図は、自分のココロが一定の位置を占めていながらも、アタマに相対的優位を奪われている不安定な状態です。

表面的には日常生活を送れているので、神経症水準、つまり要注意水準です。

 

・まず、「私が〜」という主語がありません。

ココロが活性化していないので、たやすく同格体系に仕事、つまりアタマが入ってきます。

時間の過ごし方や人生の決断事項など多くの場面で、仕事(会社)が自分の主語になっていることでしょう(「仕事だからしようがない」「仕事だから我慢しよう」etc)。

それはココロよりもアタマ=仕事が優勢だからです。

 

・以前「お金という便利な物差しを度外視して仕事をすると、自分に対する歯止めがなくなります」と書きましたが、お金自体には意志や思考はありません。

むしろお金の勘定はアタマでないと出来ないし、アタマがしても害はないのです

害があるのは、お金と仕事を分けて考えないで、ほとんど一緒くたにすることです。

 

・なぜ一緒くたにしてしまうか?

それは仕事の定義の問題です。

上図においては、仕事は「大人なら当然するべきもの」「バリバリ仕事する私は価値がある」等と定義されます。

「仕事を通じて自己実現」「順調にキャリアアップ」等という、何か人格の向上の為に、仕事をきちんとこなすことが不可欠かのような言葉もその定義に属します。

 

「人格」とイメージすると、つい上図のように「生き方」と同格に置きたくなってしまいますね。

しかし、この定義は人格という言葉を用いて人を不安にさせ、会社の都合のいいように働いてくれる人をいかにたくさん確保するかという意図があります。

 

・仕事の定義:お金を稼ぐ目的の以上でも以下でもない労働、です。

 

仕事をお金と労働に分解すると、仕事の正体が見えてきます。

「仕事をすべき」とは、日本の憲法・法律では何ら決められていません。

但し、生活保護を受けるためには、労働できないことを証明せねばなりません。

つまり間接的には、お金がない人は労働してお金を稼いでくださいと言っています。

一方、お金がある人に対し、労働せよというルールはありません。

その人にとって必要なお金があればそれでいいのです。

 

・仕事をせよ、と言っているのは、組織に都合がいいように最大限労働してほしい社会や会社です。

そのためには、お金という一目瞭然の物差しを後ろに隠して見せないうようにして(あるいは給料や昇進の査定という効果的な餌として見せ)、やる気や責任感という「人格」に訴えます。

 

・そして、そういうことを平気で言う組織に入るために、いい大学や一流企業に入ることを目指し、それを疑いなく人生の幸福だと思い込んで実行するのがアタマです

要するに、会社の意図を自らのアタマに取り込んで、それを自分の生き方のルールだと思い込んでしまうのです。

 

・やはり近代までの農耕社会で、ムラの成員全員が総出で農作業を行わないと収穫に大きな影響があるという時代の思考の名残なのでしょうか。

つい最近までは、社員旅行、社内運動会といったムラ社会の無礼講的な行事も盛んでした。

しかし、社会意識がそうだとしても、現代の個人のライフスタイルは農耕ムラ社会の掟にはもはや適さないのです。

 

・「仕事を通じて」自己実現はできません。

自己実現は、上図の「生き方」の領域、「私が〜する」というココロの、その人固有の生き方の領分です。

従って、仕事ができなくても人間性とは関係がないのです。お金をもらえるだけの水準の労働ができればそれでよいのです。

もし、お金抜きで本当に仕事が楽しいのであれば、それは仕事とよぶべきではなく、天職と呼ぶべきでしょう(あるいは「しごと」((私事)や(自事))でしょう。次々回の「体系D」で詳述します)。

 

・会社サイドのみに働き方改革を求める動きが最近報道されていますが、この思考構造自体、上図<B>の体系に拠っている証拠です。アタマ優位なのです。

会社側のルールは絶対必要だし、若いうちは右も左もわからないので守ってやる必要もあるでしょう。

でも、生きる主体は個人の生き方=ココロにあります。

仕事の選択や働き方を規定するのは自分で、会社側ではありません。

 

・会社のルールが自分の「生き方」になってはならないのです。

会社のルールが徹底されたからといって、自分が守られて、人生が充実することは決してないのです。

ルールを設定するのは、まず自分です。

そのルールの源は、自分の感性つまりココロです。

そこを基軸として、会社側のルールと照らし合わせる作業が不可欠です。

それで、納得いかないなら話し合うなり、時には妥協するなり、どうしても我慢できないなら、会社を変える選択肢も当然あり得る。

そこには、葛藤もするけれど選択権をもっているのは自分の方なんだという、自分の人生を生きている確かな実感があります。

 

・余談ですが、上図<B>の価値観にある人は「仕事のできない人間」になります。

組織のことだけ考えて、決算額や測定した数値をごまかしたり、贈収賄等の不正を行ったりします。

一方、前回示した<A>図で、仕事の上位にお金があるということは、お金を払う人、つまりお客があるということで、仕事の基本はまずお客さんがお金を払うに値する活動のことであるはずですが、この<B>図の人達はそういう仕事に対する客観的な感覚を持たず、組織に属しているんだ、組織を守るんだ、という狭く独善的な思考に浸って満足しているのです。


2017年4月4日