すこしだけ本質的な/深めのお話‐ココロとアタマを超えて

ココロとアタマを超えて

 

何のために生きるのだろう.....

生きる意味はどこに見つかるのでしょうか.....

充実した人生って、どういうことでしょうか.....

 

時おりお聞きする、そんな少しばかり(いえ、かなり)根源的な疑問について「すこしだけ本質的な/深めのお話」シリーズとして、今後折にふれて考えてゆきたいと思います。

テーマの性質上、哲学・宗教的な思想にも触れてゆくことになるかもしれません。

 

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今回は、アタマ的な理論的思考とココロ的な感性・直観を超えた先にあるもの、について考えてみます。

 

「ココロを大切にして働く」シリーズのなかで書いた体系図「D」で、ココロとアタマが連携・融通している体系の最上位に「人生」を置きました。

これは、たんなるタイトルではありません。

ある種の人間の精神状態です。

それは、図が示す通り、ココロとアタマを超えた所にあります。

 

「ココロを大切にして働く」の二回目で保険・医療に触れましたが、それは、絶えず死の不安に苛まれ、医療や保険にすがり続けるか、自分本来の生き方を生きて、最小限の医療を自分で選んで死に臨むか、という死に際(死に方)を意識したものでした。

 

死というと特別のことのように感じますが、個人的には、死は自然や宇宙に還ってゆくことだと思います。

そして、そういう自分を超えたものに還ってゆくには、自他の区別を超える必要があると感じます。

 

そして、おそらく、生きているうちに自他の区別がない境地を垣間見ることは可能であり、それにはココロとアタマの融通が欠かせないと思うのです。

 

ところで、ココロは「自」であり、アタマは「他」です。

 

ココロは自分に適った生き方を知る唯一の縁(よすが)であり、その意味で「自」です。

でも、ココロだけでは細かい思考はできません、ココロは命を保つお金の計算等をしてゆけないのです。

アタマの方は、むしろそういう外的な計算や予定立てが得意です、つまり「他」を担当しています。

ココロとアタマのあいだのちょうどよい塩梅が大切です。

 

ココロを主体にした生き方は、自らの性質に最適なので、生きる喜びを感じます。

ココロは、その喜びをより豊かにするために、アタマと協同作業をします。

そういうふうに日々を送るうちに、ふとした瞬間になにか大いなる感謝とか慈悲の念が湧いてきます。

これが自他を一瞬超えた、非自他の境地です。

 

それは、自らを一生懸命大事にして生きることで、それまでの自分の喜怒哀楽、思考等全ての生きている瞬間が、あらゆる生きとし生けるものに同じように存在していることを知る、その瞬間です。

この体験は、時間は短いものの、質的には極めて純度の高いもので、その後の人生に計り知れないほど素晴らしい影響を及ぼします。

 

しかし、その特別な体験は、宇宙や自然と同じように、生きている瞬間でもあり、同時に死の瞬間でもあります(宇宙は生も死も包含してしまいますから)。

宇宙や自然と同質の「全き(まったき)」の瞬間、これが「D」図の「人生」を意味しています。

 

でもやはり、そこに留まり続けると、通常の生活をしてゆけないのです。

やろうとすれば、生きたまま土中に埋められる即身仏になってしまいます。

 

ココロとアタマのバランスに日々葛藤し、自分なりの生き方を全うし、それを楽しむのが基本だと思います。

その基本を持っているからこそ、ふとした時に自分を超えるものに近づける、その感覚は永久に自分に留まり続ける。

そして、願わくは、人生最後の時に自らの生き方への満足と(既知の)大いなるものへの回帰を受け入れられんことを。

 

<D:ココロ=私が主体(時おり/最終的に宇宙と繫がる)>

 

人生=======⇒宇宙・自然

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「私が〜」の生き方 ≒ しごと・遊び

(ココロ)      (アタマ)

 


2017年5月5日