人生に意味はあるのか
煩悩具足(ぼんのうぐそく)
煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)
仏教にはこんな言葉があります。
煩悩(世間にあふれてはいるが、本来の自分にとっては余計な思想・知識)を具足(煩悩をまるで自分の人生に不可欠な信条や方針としてたくさん身に付けるさま)したり、煩悩を成就(煩悩を勉強して吸収し、それを活かすことが人生の成功への鍵なんだという思いに囚われ、ひたすらそれに邁進するさま)したりすることがいかに虚しいことかを語っています。
ところで、私は、人生について、世間一般で言われているような「意味」は存在しないと思っています。
世間一般では、幸せな家庭を持つ、充実した仕事をする、趣味を極める、スローライフ、など色々な概念・方法が、あたかも万人が好みによって選択可能な、人生の意味を担うものとして、宣伝されているように見えます。
しかしながら、人生に意味があると設定し、全ての人間が人生に意味を持つべきだと周囲に宣伝・教育すること自体、人間の勝手な理屈付けであり、押し付けだと私は感じます。
「煩悩教育」「煩悩宣伝」です。
人間は、まず生きること、つまり、食べる、寝る、健康であることが基本です。
他の全ての動物と同じことです。
健康に生きることができるなら、それだけで人生は満たされています。
それって、本能任せだと思うかもしれませんが、健康に生きるだけでけっこう充実するし、幸せです。まさに理屈ぬきに。
なんといっても、一義的には我々は動物なのですから。
そのことを忘れるべきではないと思います。
但し、そういうふうに生きるには、「人生に意味があるべき」だという押し付けを捨てて、自力でサバイブ(したたかに生きてゆく)することが必要になってきます。
この宇宙に生きとし生ける存在は、みな自立して生きています。
自立できない存在は従容として自然に還ってゆきます。
ですから、押し付け=他人が作った方法で生きるのは、単純に自然の摂理に反しているのです。
自然の摂理に反することは、動物として存在価値を見失っている状態なので、どこか気持ちの良くない感覚が身体のなかにあるはずです。
一方、押し付けられていない独自の世界を生きる人は、何らかの身体的ハンディがあって周囲のサポートを受けていても、気持ちの悪さを抱えてはいないでしょう。
上記のことだけで充分満たされると思われるのですが、
なぜか、ある部分(実は大半)の人達は、
生まれつき、
時間が経つうち、
なにかのきっかけで、
やりたいこと、やりたくないこと、
なにかを考える/進めるのに自分だけの特別な方法、
などに気がつきます。
人間が動物と(少し)違う所以です。
本当に不思議なことに、それは見つけようとして見つかるものではありません。
むしろ、押し付け・意味付けを一旦洗いざらい忘却した頃に、ひょいと見つかります。
世間一般(ネット、テレビ、マニュアル本etc)のなかには絶対ありません。
それは、完全に自分オリジナルなものなので、構造的に、原理的に、外部には存在しえないのです。
自立しているという意味で、このことは、自然界の動物と同じ摂理に適っています。
大乗仏教でも、まず生命力の源である欲望を育てていく、欲望が育ってゆくなかで煩悩の塊になるだろうけれども、煩悩を一旦否定した後には、依然として生命力を保ち、かつ今度は清浄で慈悲に満ちた大いなる欲をも併せ持つとされています。
このことは、上記で述べた、自立して野性を生きるということ、そしてオリジナルな自分の生が見つかるということと一致しています。
「なぜ生きるのか?」という問いを持っている人は、その問いを一旦捨てねばならないかもしれません。
一旦、生きることに徹するのです。
もし、自分の裡から、やりたいこと等が湧いてくるなら、人生丸儲けです。
湧いてこなくても、生きているなら、誰にも何にも縛られずに生きているなら、やはり丸儲けです。
2017年5月18日