サラリーパーソンの護心術2−相手のコアをみる

人格フェーズも使って相手のコアをみる

前々回、社会や会社に適応的な「理性フェーズ」(自分の表面)、会社には無関心な自分のオリジナリティな感性の「人格フェーズ」(自分のコア)、という「二重構造」を書きました。

 

会社で普通に仕事をしている時は、理性フェーズを使うのですが、上司はもちろん顧客に対するときなどは、なんだかんだ言っても自分の方が「弱い立場」ということもあってか、「あの人はお客さんだから〜しなければならない」とか「さすがに社長の言うことには従わないといけないな」と、どうしても相対する人の立場や肩書きという「レッテル」に応じた思考・行動をとることが多いと思います。

このことには、日本社会の文化における年長者、商取引相手への一定の敬意、役職や資格保持者を尊重する風潮があると思いますし、それは日本社会を構成する要素なので私は一概に否定はしません。

とにかく理性フェーズも、そのことを汲みとって適切に社会適応すべく、相手のレッテルを尊重して仕事を進めていくのです。

通常はこれで何の問題もないと思われます。

 

しかしながら、それだけではどうしても人間というものへの見方が平板になってしまいます。

仕事なんだからべつに平板で構わない、ということももちろん言えます。

 

但し、平板でない立体的な人間の見方をする方が、単純に面白みが湧きますし、おうおうにして相手への同情や憐れみがでてきて、それは結局は自分自身の人間性を深めてゆくことになると思います

なにより、誰かと仕事を進める際に、自分に余裕がでてくるので、結局は仕事がラクになるのです。

 

それには、仕事の際、理性フェーズだけでなく、人格フェーズも積極的に使うのです。

相手がどんな人間か、自分の奥深くの感性や直観に照らし合わせて、感じてみます。

 

社長だって、上司だって、お客さんだって、実は自分のコアを持たない、上司の顔色や世間体を気にするだけの哀れな人間かもしれないのです。

仕事だからしようがない、仕事と割り切ればたいがいのことはできる、と思い込んで夜遅くまで残業をし、休日も仕事のことが気になって仕方がない可哀想な人間かもしれないのです。

 

仕事の合間のふとした瞬間にその人のコアが垣間見えるかもしれません。

そのうち、この人は自分のコアをちゃんと意識しているのに、会社ではそれをわざと隠しているな(あなたのように!)とか、別のある人は自分のコアに気付かず、仕事をコアと思い込んでいるか、がなんとなく判別できるようになります。

 

わざとコアを隠している人には余裕のようなさばさばした雰囲気があります。

自分のコアに気付かず、自分のコアを仕事だと思っている人には、しょっちゅう焦っているような、何かに入れ込んだままの危うさがあります。

 

そうです、自分の人格フェーズを働かせて、相手を見ると、この人は自分のコア(人格フェーズ)をしっかり持っているかどうかがなぜか分かってしまいます。

おそらくは、相手もあなたのことを同類だなと分かっています。

 

コアがあれば、それでよし。

コアがない人には、そうなってしまったその人の人生に思いを馳せ、その人の行く末を黙って静かに見守りながら、理性フェーズを使って一緒に淡々と仕事をする(黙っていないで口を出すにはベテランカウンセラー並みの技術が要るので用心しましょう)。

そう考えると、社長でも上司でもお客でも、その人への相対し方が複眼的な趣になってきて、自分の懐も深くなり、人間という景色が俄然違って見えてくると思うのです。

 

2017年6月13日