元型(archetype)と「セフィロート」
人やものごとに「元型」が存在すること、そして元型にはいくつかのタイプがあること、
これを古代から説いていたのが、東洋の「易経」なら、西洋には「セフィロート」があります。
「セフィロート」は、ユダヤ教の思想の中にあるもので、旧約聖書の神話的な背景となった考えです。
旧約聖書のそのまた背景となった思想ですから、成立年代は「易経」と同じように古く、紀元前数世紀のことなのでしょう。
「セフィロート」とは、神の内面がこの世界に顕現する際にとる十の象徴のことです。
ケテル(王冠)、ホクマー(叡智)、ビーナー(分別知)、ヘセド(慈悲)、ゲブラー(厳正)、ティフェレト(美)、ネーツゥハ(把持)、ホード(栄光)、イェソード(根基)、マルクート(王国)です。
この十の象徴は、「易経」の乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の各々の「本象」と同じような意味合いをやはり各々、
神の霊、気、水、火、高、低、東、西、南、北といった具合にもっています。
ユダヤ教は一神教思想なので、神というカラーが濃く出てきますが、「易経」も「セフィロート」も、この世の一切万事が作り出されるところの根源的な諸要素を表しています。
(ちなみに現代のキリスト教では、天使には9階級あるとされていますが、その起源となった思想もこのセフィロートだと言われています。)
「セフィロート」のように神という存在を追求する姿勢にしろ、「易経」のように森羅万象の理(ことわり)を追求する姿勢にしろ、そこには現代の我々のように自分の外部から常に何か新しい知識やテクノロジーを身につけようというスタンスではなく、自分内部の感覚や直観を糸口にこの世の神秘的な成り立ちに迫ろうという素朴な好奇心があると思います。
そのような姿勢で真理を追求すること、そのこと自体もまた「人としての存在意味」=オリジナリティを認識することにつながっていったし、おそらく古の人は生きるにあたってそのことを追求する大事さを知っていたと私は考えています。
ですから、ごてごてと外部から色々なものを身に付けて、うつ状態になった時には、このような人間の成り立ちとして根源的な本質的な考えに立ち戻ることに非常に大きな意味があると思うのです。
2017年7月14日