ゼリア新薬研修事件について思うこと
フェイスブックページで少し書きましたが、ゼリア新薬の研修で、「軍隊のような雰囲気」のなか、過去のいじめや吃音を他の社員の前で無理矢理言わされた社員の方が、精神疾患を発症し自死に至ってしまった事件について、思うところを書きたいと思います。
ミクロの視点
この事件は直接的には、研修業者が精神の「病態水準」の知識を持っていない素人だったことが大きいと思います。
病態水準とは、精神の「病気の度合いの水準」というより、「精神の安定さの度合い」をいうもので、人により生育環境等何らかの要因で、強いプレッシャーのもとで自己の内省を強いられると精神症状を発して危険な状態になる方がおられます。
しかし、もちろん一見しただけではそうとは分かりません。
むしろそんな人達は過去の痛みや生きづらさを抱えながら、人知れず自分なりになんとか持ちこたえて、必死に人生を歩んできているのです。
研修業者は、一見では分かりっこない不特定多数の、しかも生活環境が大きく変わって間もない新入社員を相手にしているのですから、人間というものを扱う仕事をしてそれでお金をとっている以上、強いプレッシャーや内省の強制は絶対にしないことで、病態水準が不安定な人にタッチする危険を絶対におかさないことが必要だったのです。
マクロの視点(会社サイド)
日本の多くの会社では、個人の尊重という概念が確立していないと私は考えています。
誤解を恐れずに言えば、売上や利益を上げるために人間性を犠牲にして意図的に軍隊的な雰囲気を作る面があると思います。
研修に限らず「人間個人に相対している」という気持ちが基本にあれば、病態水準の知識がなくても①個人の過去を②皆の面前で、ほじくりかえす真似はしないと思います。
そういう個人を無視した異様な思考や振る舞いが、研修業者のみならず会社からも滲み出て「軍隊じみた雰囲気」を作っていったのではないでしょうか。
マクロの視点(社員サイド)
一方、社員の側は、そういう会社の現実=人間性よりも売上を重視する面が強いこと、を認識する必要があると思います、残念ながら・・・。
私も自分で会社生活を経験し、色々見聞きしてきましたが、多かれ少なかれ企業というものは人間的なものより売上至上=軍隊的なものが優勢なのがリアルな現実なのです。
だから、自分の方で個人を確立する必要がどうしても出てくると思います。例えばこのように。
自分は会社に雇われている→会社と対等な契約を結んでいる
自分は会社に育ててもらう→自分で培ったものを契約に応じ会社に提供
今回の事件は、会社・業者もひどいですが、もしひどいことが起こったときに、自分と会社は対等という気持ち=必要があれば自分の身を守る意識、を持っていれば、無理に研修に適応しようとせずに、その場から立ち去って助けを求める、とか、事後に援助機関に相談する、等の行動がとれた可能性もあると思うのです。
こんなことを大学生の時からでも心に留めておけば、ずいぶん過労死と言われるものが減るように思いますし、個人の生き方が多様化して結果社会が多様化して、人生の選択肢が多い生きやすい社会になるのではとも思うのです。
マクロの視点(社会・歴史)
今回のこのような研修は、社員は一人残らず鋼鉄のような心と意志をもって仕事をすべきで、弱い人間は要らない、と言っているように感じます。
それは、必ずやひとりひとりの人間の歴史や固有の人間性を無視したものに行き着きます。
そしてそれは、かつて社会の効率化に不必要だとして身体・精神障害者やユダヤ人を虐殺したナチスとなんら変わりません。
個人に対して研修と称し、何らかのトレーニングを課す際、企業の総務担当者は常にこのことを肝に命じて、研修内容や雰囲気をチェックするべきなのです。
2017年8月11日