カウンセリングの技法を日常へ応用する⑨ー共に在る
共に在ること、
これは技法でもなんでもないようですが、全ての技法の根幹にある精神と言えると思います。
私は上司だから、
私はカウンセラーだから、
私は親(であるべき)だから、
等の「立場」で仕事をする際、どこかでその立場を外れたことに直面したとき「もう給料分の仕事はしただろう」、「自分はやりたいけど会社の方針があるからできない」等どこかでブレーキや躊躇がかかる、もしくは「自分だったらこうする」とか「私と同じ失敗をさせたくない」等の願望がどうしても顔を出してきます。
この「立場」は本当の自分とは完全に一致していないため、ある地点まで行くと自分の内部でズレが生じてくるのです。ですから「立場」は二次的なものといえるでしょう。
さて、では一次的なものは何か。
まず、我々はヒトという生き物であることです。
そこには立場や組織の制約、また「〜すべき」という義務意識もありませんし、「自分は〜できる能力がある」という自意識さえありません。
そこから湧き出る一次的なものが、ただ「共に在る」ということです。
それは、人間以外の動物でも広く行われていることです。
相手を認める言動をすること(鳴き声を発する→人間でいうあいさつ)、
相手を気使う行動をすること(傷を舐める→人間でいうスキンシップ)、
なるべく相手のそばを離れないこと(自分の身に危険が迫るまで傷ついた仲間のそばを決して離れない動物がいます→人間の場合は継続的に関わっていくということ)、
こんな行動が生物界では幅広く認められます。
好例をご紹介します。
私の先生の先生、近藤章久氏の自伝「セラピストがいかに生きるか」(春秋社)からの引用です。
戦後、軍隊から帰還した近藤章久が30代半ばで医師になって、配属された現場での新米医師のときの体験を回想した部分です。近藤は他の医師が匙を投げていた精神科の患者を担当します。
「精神科に入ったら、緊張病(カタトニー)の女の子の担当になりました。その子はずっと膝を組んでいてその上で両手を組んでいる。五年間くらいそういう状態で、爪がどんどん生えまして、組んだ手の中に入っても動かなくて、血がダラダラ出ている。
看護婦に聞いたら、「あれはみんなほったらかしている。何にもできないからあんたみたいな新人にやらすんだわ。本気になってやらない方がいいよ」と言われました。
それでも僕は引き受けたんで、最初から朝早く起きて病院へ行った。そしてお母さんと二人に「おはよう、痛いだろうね」と言って、それを朝と昼と帰る時と三回やって、それから「さよなら」と言って帰るという風にした。
それを三ヶ月くらいやっているうちに、何かこう通じるような感じがしたんで、その次に、手の上をポンポンと軽く叩いて「痛いだろうな、早く治したいだろうに。治そうね」と言った。それも毎日毎日、暇さえあればやったんです。
それをやっていたら、三、四ヶ月たってから、朝お母さんが廊下のところで待っているんです。「先生!」と呼ぶから、何かあったのか、大変だと思って真っ青になって僕が行ったら、お母さんが大声で泣くんです、「うれしい」って。見たら、その子が手を離しているんです。えん然として、あんなきれいな顔みたことない。十七、八の女の子が、花が開いたように微笑んで、ちゃんと僕にお礼の言葉を言うんです。僕も感動しました。」(116〜117ページ)
近藤章久はなんら医学的・心理学的なテクニックを使ったわけではありません。
ただ、声をかけ、肌を触れ合って、それを根気強く毎日何ヶ月のあいだ続けたという、一見だれにでもできそうなことです。
しかし、立場を強く意識してしまう人は、技法や薬等を試さないと自分に価値がないと思い込み、なんらかの「治療」をしたでしょう。
しかし、この女の子には、ヒトという生き物としての「共に在る存在」がじわじわと効いて、回復するに至った。
理屈も何も無く。
私は思うのですが、人間が尊厳をもって生きていくことの秘訣は、何か外部から輸入的にもたらされるものでなく、何かの確かな存在感を自らが感じた時に自らの内部に生まれる気がしています。
その存在感は、効率よく、格好良く短期間に醸成できるものではなくて、地道に継続するところに、しかも継続するがゆえに(組織や立場やテクニックなどによって)ごまかすことができない、生身の人間と人間同士の全存在が在るところにしか求められないのだと思います。
2018年1月30日