心理のよもやま話−神経症①

神経症の構造について

先日ニュースを見ていたら、ある小学校の校長先生が出ていました。

その校長先生は、インフルエンザから回復した旨の「登校許可書」を病院で発行してもらい、それを保護者から学校に提出してもらわないとインフルエンザが治っても生徒は学校に来てはだめだ、ということを言っていました。

テレビでは少し過剰反応ではないかというニュアンスで放送されていましたが、私は日本の神経症的な傾向がますます強くなっているなという印象を持ちました。

 

神経症というのは、ひとことで言えば「自分を信じられない」状態です。

 

A型とB型の両方が同時に流行していることが頭にあったのかもしれません。

学級閉鎖が拡大した場合の今後の学校運営への影響が気になってしようがなかったのかもしれません。

保護者会や教育委員会等外野が色々喧しかった等もあったのでしょう。

 

でも、この校長先生は、熱が下がって3日以上経てばインフルエンザウィルスは無いであろうという、せっかくの各人自分で判断できるものさしを捨て、病院という自分以外の所に判断を丸投げしました。

文句のつけようのない「客観的かつ科学的な」判定があれば、インフルエンザウィルスはゼロだから、学校での感染リスクもゼロになる、従い自分にクレームは来ない、そう考えたのだと想像できます。

 

そのように判断の主体を自分の内部から外部に移してしまったこの校長先生は、典型的な神経症を病んでいると言えます。

色々なことが気になってきた時に、神経症の人は自分の感覚を信じないで、とにかく外部のものを基準にします。

 

強迫性障害での確認行動などは、そのポピュラーなものです。

鍵をかけて何度も締まっていることを確認しているのに、実は締め忘れたのではないかと思ってしまい、何度も確認作業をしないではいられない。

しかしながら、原理的に通常この作業自体自分で行い、自分で確認するので、外部に頼る術はなく、どこまでいっても安心感は得られないので、それゆえ確認作業がループしてしまうことになります。

自分がしたこと、自分が見たこと、そういう自分の感覚を信じられないのです。

 

自分よりしっかりしていると思える家族が一緒に外出する時、その家族が戸締まりをすると、うってかわって確認のことなど気にしないようになります。

しっかりしている「外部」に、判断を任せたからです。

 

この強迫傾向は、数泊の旅行に出かける際などの大きな出来事の時には、顕著に現れます。

それは大きな出来事に伴う「うまくやらねばならない」「余計失敗できない」という思いと確認恐怖が強く結びついていることを示唆しています。

そして、この心情になった人こそ、この校長先生だったのでしょう。

 

こういう人たちの心の中心には、

うまくやるには客観的かつ科学的な方法が重要だ、

周囲からの意見を考えてぬかりなく運営せねばならない、

といった長年刷り込まれてきた固定観念があります。

客観的、科学的、周囲、を気にして生きているうち、いつしか自分の感覚よりも、そちらを基準にするようになる。

ついに、自分で自分を信じられず、判断をアウトソーシングしてしまう。

そういう心理が確認恐怖やこの校長先生にはあると思います。

 

しかし、このような神経症者は、その構造から抜け出さない限り、自分の心を安心させることが出来ないので、様々な心身症状にみまわれます。

自分を安心させることが出来るのものは自分だけ、外部には存在しないのですから。

 

こういう心理状態は、最近の日本では枚挙にいとまがありません。

これさえ食べれば病気にならない等の食の番組、いかに早期診断が重要かということを喧伝する病気に関しての情報番組。

おしなべて自分の感覚を磨くよりも、数値を列挙しての客観情報、自分の感覚よりも医師や検査器械の情報を信用させる番組構成です。

 

こういう情報を作り、見る人が増えていること自体、今の日本で神経症の傾向が強くなっていると私はみていますし、日々の実感でもあります。

 

2018年2月13日