心理のよもやま話−神経症③

神経症と不安

神経症とは「自分で自分を信じられない」状態だと書きましたが、その心理をもう一歩深掘りしてみます。

 

神経症の奥にあるのは「不安を抱え続けることができない」精神状態であると言えます。

この精神状態が神経症を作り出す元となっています。

 

不安は、現代では一般的には不愉快な、つまりネガティブな感覚と思われていますが、それが当人にとっては無視できないほどの感覚・感情の蠢きであるのにはそれなりの理由があります。

 

それは、不安は人間にとって生きていくうえでの不可欠なサインだからです。

 

理由は分からないけどこの場からすぐ離れた方がいい気がする、といった本能的な生命維持のための不安もあれば、

毎日このままサラリーマンを続けて定年まで生きていてよいのだろうか、といったその人自身の基本的生き方に関わる不安もあります。

 

不安があるからこそ、人間は常に自分の五感を研ぎ澄まし、心に向き合い、必要な場合には敢然と決断や行動をとってゆくことができるのです。

 

一方、今の日本では、子どもたちはそもそも不安というものを生きるための正常なサインだと捉えない教育を施されています。

 

むしろ大部分の親や学校は、人生からできるだけ「不安」を取り除くために一流大学への進学等自分「外部」の基準や既定コースに依存させる考え方を結果的には奨励しています。

併せて、そのような教育システムを推進するのは、他でもない自身に神経症構造を内在する官僚組織(文科省)ですから、神経症を再生産する構図となっているのです。

 

このような環境で育った子どもが高校生になり、SNS上で友達に自分がどう言われているかを異常に気にする、就職先は親に言われるまま「安定した」公務員や大企業等を希望する。

 

不安を抱えることができない、いえ、不安を抱えながらも身をもって自分らしい人生を切り開く大人を間近に見ることができなかった青年が増えている印象が私にはあります。

 

しかし、不安を排除した生き方はプログラムをインプットされたロボットとあまり変わりません。

一方、自分オリジナルな生き方に呼応して、日々変化する心身をダイナミックに反映する不安という精神存在は、早晩ロボットのような生き方に強硬に抵抗し始め、それが様々な神経症状となって現れてくるのです。

 

2018年2月27日