心理のよもやま話−神経症④

神経症と社会

社会と個人の精神は、常に深い関係にあります。

 

ところで、近年先進国で特権層が大衆を操るのに3S(スポーツ、スクリーン、セックス)を利用している、という噂があります。

都市伝説みたいなものかもしれませんが、これを神経症構造にあてはめてみると意外にうなづけるものがあります。

 

「スポーツ」では、オリンピック、サッカーワールドカップをはじめ放映権料やライセンス料高騰等商業主義が凄まじく、そこにこそ特権層のうま味があると思うのですが、

そもそも、そこに大衆を呼び込んでお金を落としてもらうのに、スポーツという人生の縮図を、見る側の身にはスポーツに付きものの怪我や精神的辛さ等が直接降りかからないかたちで、「感動」だけ切り取って提示するという巧妙なかたちをとっているとも受け取れます。

 

人生とは筋書きがなく、外部に頼るものもなく、自身の不安というセンサーだけを頼りに切り開いていく、ある意味リスクだらけのものですが、このプロセスが凝縮されているものこそがスポーツです。

一方、リスクから逃れ外部依存の神経症構造で生きてきた人は、真剣勝負のスポーツを見ると、自分の人生では味わえないドキドキ・ワクワク感や自身の内的な力で何かを成し遂げた選手に対し、羨望や共感を無意識に感じるので、あたかも自分の人生が充実したかのような錯覚をその時だけは覚えるのでしょう。

 

「スクリーン」とは、映画館やテレビのことですが、そういう気晴らしに便利な媒体が街中や家庭にあることで、「人生には娯楽が必要だ」という観念が、便利ゆえに容易に人々の間に浸透してゆきました。

娯楽に駆り立てられた人々は、テレビ番組での宣伝あるいは現在ではSNS(スマホもスクリーンです)での「口コミ」により、商品、旅行等色々な娯楽を購入してゆきます。

 

テレビやスマホがなかったら時間の使い方が分からなくてヒマで死にそうだ、という人が多いのは特権層の狙い通りです。

何かに依存する人は、自分が寂しくて自分の外部から何かを買いたくなるものです。

そういう人達には経済成長という政策は最重要のものとして映るでしょう、一方選挙での投票をはじめとして政治活動に関与してゆく主体性はないのも特権層にとってはコントロールし易い大衆と言うこともできます。

 

「セックス」とは「自由恋愛」のことです。

「自由」に「恋愛」することがいいと思った人は、人がたくさんいて田舎のように誰もが顔見知りでない没個人の気楽さや、デートに便利なおしゃれな店や都市娯楽を求めて、都市生活に憧れを抱くでしょう。

そのような人達はいずれ結婚し、田舎に帰らずそのまま都市に住み着き核家族を構成するでしょう。

 

また、都市で暮らすのに手っ取り早い生活形態は企業に雇われてサラリーマンをすることです。

そもそも、サラリーマン家庭の核家族という形態は、産業革命時の英国に端を発します。

都市に大規模な企業・工場を集積させると、多大な労働力が必要になりますから、若くて身軽な核家族という労働者は、大資本家(特権層)の都合と若者の都市指向が合致したといえます。

 

しかし、自由恋愛・核家族化は、個人を共同体から切り離し、個人を共同体よりも会社や娯楽等の「外部」に頼らせる働きをしたと思います。

共同体の機能は、人同士の繋がり、儀式・風習等の伝統を日々身をもって経験し蓄積していくことで、そこで生活する人々自身の「内部」に頼れるもの=アイデンティティを作ることです。

 

一方、都市で根無し草になってアイデンティティを持ってない人々はストレスがたまる、ストレスを発散させるには、スポーツだ、娯楽(スクリーン)だ、ということになってきます。

 

このように、社会における娯楽等の消費形態、家族形態は産業構造と結びついています。

 

ということで、「3S」は、まず労働力を効率的に調達する為に人々を共同体から引き釣りだして、人々のアイデンティティを奪いストレスを持たせて娯楽やスポーツに依存させることで、個人消費経済もまわる特権層が儲かるシステム、という見方ができる気もします。

 

以上は、外部に依存させれば容易に人をコントロールできるという悪しきお手本です。

逆にアイデンティティを内に抱える人に対しては、コントロールはできません。

迷い、思考しながら、まがりなりにも自分で自立しているのですから。

 

社会と個人の精神の関係は、3Sのような依存・外在化させる神経症構造の関係もあれば、共同体のように内在化・独立させる健全な関係もあるのです。

 

2018年3月6日