心についてのメモ書き−アイデンティティと神話②

都市の祭り

都市における共同体的な祭りというと、私には福岡の祇園山笠が思い出されます。

 

福岡に住んでいる友人によると、年に一度の「山笠」を中心に人生がまわっている人がたくさんいるそうです。

福岡はもちろん大都市ですから、仕事もそれぞれ自営、サラリーマン、農業等様々ですが、町内単位で参加する祭りの練習(というかトレーニング)などにもほぼ全員が毎年参加するようです。

このあたりは東京都心によくみられる人的繋がりの弱さとは違うものがありますね。

 

早朝に行われる祭りのクライマックス「追い山」を私は見たことがありますが、山車を担いて全力で走る人の表情、沿道で見守り水をかける地元の人の雰囲気は和気あいあいというものではなく、緊迫感さえ醸し出しています。

何か厳かなことがいま行われて、それに参加しているんだという空気を感じました。

 

こういう、かたちにできないけれど、人間の醸し出す情感や繋がりこそがアイデンティティが育つ共同体的な土壌なのでしょう。

 

 

ところで、「Youは何しに日本へ」というテレビ番組をみると、たまに、東京の人が聞いたこともないような地方の祭りに参加している外国人がいるということが分かります。

思うに、アイデンティティを培う精神的な土壌は純度の高い人間的エネルギーであり、普遍的な魅力があるので、外国人をも惹きつけるのだと思います。

 

私もかつて企業の駐在員としてシンガポールに住んでいた頃、タイプーサムというヒンズー教の祭りを見たことがあります。

 

病気や怪我が治ったことを神に感謝する祭りなのですが、その内容とは、治った本人が祈祷のトランス状態のなかで舌や頬に太い針をさし、その姿のまま家族と共に街を踊ったりしながらねり歩き、祈祷した寺院にふたたび帰ってくる、というものです。

祭りにつきものの音楽や楽しげな雰囲気は一切ありません。

歩いている本人から発せられる、深い祈りの精神性や生きてゆくことの切なさ・尊さ等の雰囲気に圧倒され、写真をとるのもはばかられます。

 

これらもまたシンガポールという大都市における共同体的祭り(しかもかなり原初の共同体的な祭り=宗教の原型)が高い精神性を受け継ぎ、人々に生きることの基盤を提供している例だと思います。

 

 

一概に、都会だから共同体が存在しないということでもないようです。

やはりそこに在る人達の意志や想いが大切なのでしょう。

 

2018年3月22日