神話としての宮崎駿作品
一見神話を忘れたようにみえる現代日本の教育ですが、サブカルチャー分野には優れた神話があります。
それは漫画やアニメ作品に多くみられます。
なんと言っても手塚治虫の「火の鳥」、
水木しげるの特に幼少期の体験や戦争体験をもとにした作品群、
若者の成長過程を描いた「機動戦士ガンダム」etc
そして、もちろん宮崎駿監督の作品はその代表的なものです。
代表たるゆえんは、それぞれの作品が神話としてかなり立派な骨格を備えているからです。
「風の谷のナウシカ」では、冒頭の方で「その者蒼き衣をまといて金色の野に降り立つべし、失われし大地との絆を結び、ついに人々を蒼き清浄の地に導かん」と、風の谷一族に伝わる古い神話そのものがずばりと提示され、すごく分かりやすいです。
喪失(大地や大気の喪失)→出立(ナウシカがトルメキア軍の人質となる)→冒険(色々な奮闘)→帰還(大地との和解)という神話骨格も正確になぞっています。
共に旅をしてくれる存在としては、ナウシカがまさに神話上の蒼い衣を来た人へのあこがれや興味を自分に重ね合わせて勇気を鼓舞していることがそれに当たります。
ナウシカは最後に自我(意識)を犠牲にして、あの神話の蒼き衣の英雄という自己対象(無意識)に身を開くことで、両者の統合を成し遂げるのも伝統的な神話ストーリーを踏襲しています。
「となりのトトロ」も同様です。
喪失(母の喪失)→出立(田舎で家族の新しい生活を始める/さつきとメイの妖怪達との出会い)→冒険(メイが迷子になったときのさつきとメイの冒険)→帰還(母の家族への帰還)。
大事な場面で登場したり共に旅する存在は、もちろんトトロ(大中小の3人のトトロです)です。
自我の冒険を終えて成長したさつきとメイは、統合された人格となって、再び母親と今度は成熟した人間関係を築いていったのでしょう。
これもまた神話の意図するところです。
「もののけ姫」では、喪失(一族の衰退/アシタカへの呪い)→出立(呪いを解く旅への出立)→冒険(たたら場や森やでいたらぼっちの首をめぐる攻防)→帰還(でいたらぼっちとの和解/森の復活/アシタカへの呪いの解消)。
アシタカやサンを支える、大事な場面で登場する無意識的な存在は、でいたらぼっちであり、森の木霊です(あのたくさんいる小さい可愛い人達です)。
アシタカは、故郷に帰らずたたら場に留まることにしますが、そこには文明(火という文明の象徴たるたたら場)と自然(でいたらぼっちや森)の折り合いというこれもまた神話的なテーマが喚起されています。
このように宮崎監督はかなり周到かつ綿密に、神話を骨格にしてそこに物語を織り込んでいます。
神話が、意識と無意識にまたがり、孤高と絆の間で揺れ動き、人間の成長過程と死を見つめるものであり、それゆえどんな人間にとっても興味がつきないということを宮崎監督は熟知しているからこそ、あのような作品を作ることができるのだと思います。
作品の公開からしばらく経った2011年にあの原発事故が起こりますが、反省なき、文明への過剰な依存というこの原発事故の本質は「ナウシカ」や「もののけ姫」で既に描かれていたことでした。
神話は荒唐無稽な作り話ではなく、今の社会やそこに関わる我々ひとりひとりの生き方に直接大切なことを問いかけるものなのです。
最後に余談ですが、
2年ほど前、一旦引退宣言した宮崎駿監督の生活のドキュメンタリーが放送されていました。
引退したといっても、創作活動は続けているのですが、ドキュメンタリーで印象的だったシーンがあります。
ドワンゴという制作会社の社長らが、新技術のCG映像を宮崎監督に披露します。
その映像は、人間が頭と一本の足で歩くというものでした。
それを見た宮崎監督は「君たちはこれでどこに行きたいの?」と尋ねました。
加えて「私の近所で毎朝挨拶する車椅子の人を思い出した。はっきり言って不愉快だ。」と言い、その場は凍りつきます。
私から見ても、そのCG映像は人間の体を単なる部品として扱い、頭を使って歩いたらどうなるかといういわば興味本位の映像テクノロジー屋さんの視点しか持っていませんでした。
そういう心が欠落した映像は、宮崎監督が丹念に作り続けてきた心の深淵を探求した作品=現代の神話づくりとは、正反対のものであったため、
また、作品というものは人間の心に何らかの貢献をするべきだという信念があるため、
宮崎監督はそのCG映像に怒りを覚えたのでしょう。
作品は、これで「どこに」行きたいかというコンセプトがなければ単なる見世物です。
「どこに」を宮崎監督は「神話」というかたちで我々に提示しているのです。
2018年4月10日