心についてのメモ書き−AC④

トラウマ感情浮上以後

*注意!辛い記憶を思い出しそうなら(再外傷を引き起こす可能性あるので)読むのを中止してください。

 

思春期を過ぎ、就職等もして、多くのACの方は親元を離れたり、親と同居していても経済的には自立していると思います。

周囲からは、一見自我を確立しているようにみえます。

 

ですが、その奥では、本当の自我を確立するために、自分本来の情動を機能させたい、あるいはなんとかトラウマを処理してほしい、とココロは思っています。

トラウマが「扱ってほしい」と浮上し出し、解凍される準備をします。

 

その時期は、私の感触では、30代が多い印象があります。

20代はまだまだ社会に慣れるのに大変で、ようやく落ち着いた30代で、自分を振り返る余裕やエネルギーがでてきたのでしょう。

 

解離していたトラウマそのものというより、自分でもうすうす「昔何かあったな」という意識やトラウマ時の感情だけがだんだん現れてきます。

端的な症状として、トラウマ時と同じような状況、同じような言葉に反応して思考や身体がフリーズしてしまうというものがあります。

解離された状況記憶ゆえにいままでフリーズする理由はわからないままだったのが、うすうすながらもトラウマが原因だと分かってきたりします。

 

さて、大人になると、思春期のカラダの異常感は少し後退(人による)し、

ココロの機能を代替してきたアタマの「あたまでっかち」さが目立ってくるとともに、

ACの中核原因たる情動のダメージがメインに表れてきます。

 

①アタマ優位

私の印象では、男女問わす、仕事に「生きがい」を見出そうとしている人が多い印象があります。

加えて女性では結婚イコール「即人生の幸せ」と思っている方もおられます。

 

ですが、ACの方の場合、これらは自分の基準ではなく外部の基準となってしまっています。

 

前回書いたような子ども時代の親の△という基準は、△の性質に根を発して、広がっていきます。

もし親の△が「人生で苦労しないために、敵を作らずいつも人に可愛がられるように周囲の目に(=外部に)気を配る」というものであり、それが無意識に子どもに押し付けられたなら、△は成長過程では、大人の言うことをよく聞く子ども→テストで良い点とって褒められる→偏差値→一流大学→大企業と拡大してゆくでしょう。

それが、大人になれば、組織に居続けるために組織への盲従がその人の生き方の核となる、といったようにアタマは大人になっても外部基準を学習して積み重ねていきます。

 

しかしながら、そもそも基準というものは単なる目安に過ぎないものであり、もし何らかの都合でそれと自分を並べて検討する時でも、本当に自分の実情を汲み取り得るものかどうかの具体性や個別性を配慮したチェックをせねばならないはずです。

ですが、このような外部の基準はほぼ例外なく、といいますか基準の宿命であるがゆえに必然的に一般化・抽象化されていて、それをあてはめると、当然自分がクリアできないことはいっぱいあります。

 

そして、学校から社会に出ていけばいくほど、当然いろんな状況がありますから、基準が会社にある人なら「会社の幹部の言うことにはなんでも従う」ということに拡大していきます。

そこには、有象無象の人間達がいて、理不尽なこともたくさんありますから、クリアできないことも当然ながら増えていきます。

 

こう見てくると外部の基準とは、あまり一貫性のない他人の思考だと言ってよいでしょう。

なにせもともとの親の△も、いわば親という他人が思い込んでいるものに過ぎなかったのですから。

 

でも、それをまるごと自分にあてはめてしまうのが、ACの方の特徴ですので、できないことがあれば容易に「〜するべきなのに、〜できない自分はだめ」となり、これが自責・自己否定のメカニズムとなるのです。

自分のココロを抑えたやむを得ない生存戦略として、ココロを代替したアタマが親の△を真似し拡大して学習し、いつしかあたかも自分の基準かのごとく取り込んでしまった結果です。

 

これが「あたまでっかち」という状態です。

単独症状では、自分の感覚よりも外部の情報や他人にどうみられるかを優先させる神経症と同じ状態です。

 

②対人関係の不安定さ

これは、情動にトラウマを負ったことによる、AC特有の状態です。

 

「自我境界」の不完全さがその中核症状です。

 

他人に対する過度な従順さ、逆に好き嫌いの激しさ等があるかもしれません。

ひとたび会社等で言い合いになった時など、その場では自分を主張できないで引き下がり、後になってから何も言えなかった自分を思い出し自分が嫌になる、というのも多いケースです。

 

自分を守るためには、時には素早く行動する必要があります。

しかし、そもそも自分本来の◯(自分らしいパーソナリティ)という自分の尊厳を認め・認められることから長い間遠ざかってきた(解離)ので、自分の気持ちや考えを表現することに慣れていません。

 

また、自分を守るか、あるいは守らなくてもよくて信頼できる相手なのかどうか判断するには、揺るぎない自分への信頼があってはじめて可能です。

ですがACの方は、自分の尊厳を充分に尊重してくれる人間(親)を持てなかった情動記憶があるので、尊重される→尊重してくれた人間は信頼できる、という感覚に慣れていません。

いわば内部の基準をあまりもっていないわけです。

 

本来は成長してゆく過程で、尊重された感覚をものさしにして、尊厳があり信頼される自我(自分)・無条件に信頼できる人間(親)・まあまあ信頼できる人間(友達)・信用できるかどうかまだ分からない人間(知人)・知らない人達(社会)というように階層的に人を見極める情動を養っていくものです。

この他者の区分けの感覚を自我境界といいます。

人間関係の構築に不可欠なものです。

 

自我境界が不完全であると、なにより一番大事な自分を大事にする感覚がおろそかになりますから、大人になっても自分がぽつんとどこか遠くにいるような寂寥感や漠然としてはいるが大きな不安感などを持っています。

 

自我境界という自分を守り尊重しながら人間と関係を築いてゆくという情動の大切な機能が不完全であると、上記で述べた①(基準を外部に置くことによる自責感)と相まって、自分はどこか空虚で不安定で、それゆえ日々の生活でも付き合いが下手な価値のない人間だ、と感じるACの方の状態を形成することになっていきます。

 

尚、①の過程で怒り等の「ネガティブ感情」を持つのはよくないという△があれば、本来自分を守るべき怒りの感情が抑圧され、自我境界を作るときに必要な自分を守るエネルギー=怒りの感情という大切なエンジンが失われることにもなります。

 

2018年5月28日