パニック障害について
ACの方を含めて散見されるパニック障害について、つらつらと考えてみたいと思います。
フェイスブックの方には少し書いたチック症状ですが、チックの元となったアタマによる強制は、自分(ココロとカラダ)を押し殺してまで「〜しなければいけない」という方向に向き、いつしか「将来にわたり〜しなければいけないのに、〜できないのではないか」という、予測のつかない未来をもアタマが(強制的に)コントロールしようとする理不尽な思考に変わります。
これを「①アタマによる無理無理なコントロール」とします。
映画館や電車等の暗い所や狭い所、かつ(通常は)すぐには退出するようなところではない場に入ると、「このまま居続けなければいけないのに、それができなかったらどうしよう」と不安になり、呼吸が荒くなって汗が出始める。
上記の描写自体は外部基準を無理に自分や未来に当てはめている神経症的なメカニズムといえます。
同様なメカニズムは、鍵を締めた自分を信じられず、閉め忘れた未来をあれこれ思って理不尽な不安になる確認恐怖にも見られます。
これらは自分を押し殺していることへの反応ですが、ACには比較的顕著にみられる症状のひとつだと思います。
「自分を押し殺している」ことがACの人々の原因のひとつにあります。
ですが、神経症的なものでは説明できないパニック障害もあると思います。
以前書いたように「自分の基準で生きる」のがヒトの根本としての生きる心地よさであり、これは脳の辺縁系でも脳幹(本能)に近い中核部分の機能だと思います。
人間は最初は親という基準に頼らざるを得ない状態で生まれてきますから、親との情動交換が不幸にもうまくいかないと、その中核部分にトラウマを負い、したがい自分の基準を失うという根源的な不安となります。
というのも、
閉所や暗所はそういう根源的な不安を掻き立てる場所だと考えられます。
おそらく、本能である「逃走」が閉所暗所では不可能であること、つまり幼児は親からは逃走不可能であるがゆえに無防備にトラウマをこうむってしまうという苦しいジレンマとクローズされた(逃走不能な)空間が同じ状況として感じられると私は考えています。
無意識のフラッシュバックと言っていいかもしれません。
逃走不能という体験は広く動物一般にみられる、トラウマの原因となるものです。
これを「②逃走不能な根源的不安を連想させる閉じた環境」とします。
このことは、前回書いた自分を中心にした自我境界を作ることに関係してきます。
生まれた直後から自分が自由でかつ安心していられるココロの状態が、自我境界の中心たる「安全基地」(尊厳があり信頼される自我)の形成には不可欠ですが、逃走不能では安心できる基地にはならないわけです。
もうひとつ。
人間にはオリジナリティを発揮したいという内的なエネルギーが確実にあります。
また、なによりも自らの尊厳の人生を生きたいという衝動があります。
オリジナリティは理性(アタマ)から、尊厳は情動(ココロ)から湧くという気もしますが、両者は分けられず、理性と情動の統合から湧いてくるものでもあり、統合が到達地点なのかもしれません。
ところで、夢というものは、理性と情動の複雑で高度な合作過程を経た作品ですが、その合作と同じ過程や意味合いがパニック障害にも表れているのではないかと私はみています。
夢は、含意や言い換え、イメージの転換・圧縮、メタファー(隠喩)、直観等様々な情動・理性の仕事を無意識下で行います。
それは日常の記憶の単なる処理でもあるし、強い感情記憶を徐々に消化していく大事な作業でもある。
そして表面的なアタマの部分では決して分からない、人生を方向づけるヴィジョンを提案してくる。
そのビジョンは例えば、
「このようなアタマに押さえつけられた狭くるしい生き方ではオリジナリティを表現できないから脱したい」、
あるいは、
「押さえつけられ続けた自分を解放して安心と尊厳を取り戻したい」であり、
それを「このような狭い場所に居るのは不安だ」というようにメタファー化・空間感覚化し、また呼吸や汗等のように不安を身体症状化しているのでしょう。
これを「③本来の自己を取り戻す胎動」とします。
ACの方のパニック障害には①〜③がミックスされた、直接的あるいは深遠なビジョンも含んだ多様な意味が込められていると思います。
この複雑さを汲み取ることは、すなわちその方の原因を理解し、同時に回復への過程を考えることだと私は思います。
2018年6月5日