心についてのメモ書き−AC⑧

回復への道(2)

・グリーフと理解

 

ひとしきり怒りを表出するとココロが動き出します。

それはココロが溜めていた色々な感情を吐き出す合図です。

 

おそらく最初は悲しみの感情がわいてくるはずです。

グリーフとは悲嘆のことですが、ここでは悲しみ等の色々な感情に存分にひたることを通じて、満足に動いていなかったココロを過去のものとして客観視し受容し、今は感情が動くんだということを実感し始めることを意味します。

 

いわゆる引きこもり状態になる方もいますが、甘えることができなかった自分の育て直しがAC回復への道でもあります、充分に引きこもり、読書、映画、SNS等好きなことに没頭してもよいのです。

この作業を誰かに肯定してもらえることは甘え体験であり、なにより頭でっかちで「〜するべき」のような義務感・切迫感で生きてきた人にとっては、「なにもしていなくても自分が否定されない」という素晴らしい経験になります。

 

この作業には、理性も動員されます。

理想的には、信頼できるカウンセラー等のそばで、過去の自分と親の関係、なぜ自分が情動に傷を負ってしまったのか等を(前回述べた)「地図」も参照しながら、知性的な面からも理解していきます。

 

もちろん再外傷にならないように、この作業には慎重さが必要です。

だからこそ、グリーフを存分に行いココロの健康さを少しでも取り戻して、過去と向き合うに足る準備をする必要があります。

(ここで言う「理解」とは、エクスポージャー(曝露療法、再外傷の危険があるといわれる)と呼ばれるものとは違います。エクスポ−ジャーは過去のトラウマ体験そのものを想起させるのに対し、ここでは親との「関係性」を全般的あるいは断片的な印象から想起すれば充分だからです。)

 

「自分はこういう経緯で今こういう心の状態なんだ、こういう感情・行動パターンになっているんだ」という理性面の理解ができると今までわけが分からなかった自分についての疑問が解消されるのでかなり落ち着きます。

 

また「出会って別れる」という言い方がありますが、これはある人の本当の姿を認識できてはじめて(出会う)、今までの思い込みに基づいたその人の認識から離れる(別れる)ことができる、ことを指します。

例えば、親の無知・気まぐれ・強迫性向・怠惰・鈍感等に基づく養育や接し方が自分が傷ついた原因だと知れば、子ども時代懸命に親の顔色を伺って合わせようとしていたところの親その人は、無力な子ども特有の、やむを得ないけれど極めて一面的な一方通行的な見方であったことを知って、親に対する良い意味の「しらけ」がもたらされます。

 

すると、親と紐付いていた自分の過去にも、また同様に区切りをつけ易くなるのです。

区切りをつければ、前進する意欲や勇気がでてくるものです。

 

「ああ、色々苦労したけど(グリーフ)、理由も分かったし(理解)、今後は少し違ってくるかな」というしみじみとした切なさとある種の諦め、あるいは安堵や希望、これらがあってはじめて回復への確実な足がかりとなります。

それは、分断されていた理性と感情がつながることを意味し、頭でっかちさが後退し、感情を素直に感じていいんだという情動、つまり自分(の感情)への信頼を取り戻すことになるからです。

 

・感覚とつながり直す

 

感情(ココロ)が動き出すと、ココロと連動したカラダが動き出します。

私の印象では、自然のもの、木々や海などに接すると落ちつくという方が多いのですが、人間本来の情動や生き物としての本能がきちんと働きだしているからなのでしょう。

 

同じ理由でヨガにたどり着く方もいます。

ヨガは、基本的に大地と繋がり直し、心身を安定させる感覚を大事にしますので、トラウマ回復には相性のよい方法といえます。

 

感覚とつながるのに料理は一番おすすめの活動です。

(ひきこもり中でも料理だけはするといいです。)

美味しいという味覚中枢は辺縁系にありますので、情動機能を活性化することにつながります。

また自分の好きなものを好きなだけ作って食べていいんだ、という基本的な自尊感情。

 

レシピ通りに作るよりも、自分なりのアレンジをあえこれ考えるのは楽しくはないでしょうか。

スーパーに出かけて色んな食材を見て回りながら、料理をイメージして作り方も考えるのは、理性・情動・身体感覚を総動員する極めて人間本来的な活動であり、尊厳の回復方法だと思います。

 

なによりそこには、今までなかったであろう即興性があります。

即興性は瞬間瞬間の自らの気持ちだけを頼りに展開する生き物の根本的な営みです。

 

人との出会いの不思議、日ごとにうつろう春夏秋冬の風景への驚き、サッカー選手のシュートを「すごいな!」と思う、いつもと違う道で見つけた商店街の活気(を感じ取れる自分の真っ当な情動)etc、

 

適当に作ってみたカレーの意外な美味しさ、手で塩もみしただけのキュウリのフレッシュさ、手を汚して捏ねたハンバーグの(マクドナルドよりはるかに)美味しさetc。

 

これらは全て自分の内側から発する生命力を基準にしています。

誰かに押し付けられたもの、に発するものではありません。

押し付けられたものは自分のものではないので、気持ちが悪いのです。

 

即興性という感覚を大事にすることは、トラウマで縛られたココロやアタマという押し付けの対極にあります

 

これを自由といいます。

 

次回に続きます。

 

2018年6月26日