回復への道(3)
自分の感情を感じることができ、なんとか過去の傷を一区切りできる気持ちになったら、余裕が出来てきます。
余裕からは、自分オリジナルな人生を生きたい、という内から発する真っ当なエネルギーが生まれます。
あとは、このエネルギーの方向性を邪魔するものを取り除く、あるいはその方向に進むため少しのきっかけをつかむ、というくらいのことで回復は確固としたものになります。
その過程は、とりもなおさず自我境界がしっかりしてくるとういうことです。
・イエス/ノー
グリーフと理解の作業を通して、そのままの自分の感情を見つめ、何もしない自分をもなんとか肯定できるようになったら、自分にとってのイエス/ノーの感覚が明確になってきます。
日常生活の色々な場面で、意識して好き嫌いの感覚を見極めるのもいいでしょう。
それは今まで従ってきた外部の基準から、内部の基準つまり自分(の感情)に従っていいんだ、という観念に大転換することを意味します。
①のアタマでっかちさ(外部基準)がだいぶ薄まり、③の自分のココロ(内部基準)を一番にするという安全基地が築かれ、それは適切な自我境界の基礎となってゆきます。
好きなこと・まあまあ受け入れられること、
反対に、嫌なこと・どうしても我慢できないこと等
の感覚を具体的に感じとれるようになると、今度はそれを具体的に、あるいは他者に向け表現できることが基本的な自我境界の完成です。
これは「フリーズ→闘争・逃走→社会関与」の「闘争・逃走」にあたり、フリーズという萎縮・自尊心の喪失(トラウマ反応の中核)から抜け出すという、これまた大きな転換となります。
このことは、怒りの感情という基本的な自分を守るエネルギーのなせることであり、なおかつオリジナルな自分を表現したいという高次のココロのエネルギーの一環でもあります。
例えば、電車で嫌だなと思った人の傍からすぐ離れる、たとえ満員電車でも「すみません、降ります」と言って一旦降りて隣の車両に乗り直す。
簡単なことのようですが、ただ嫌だなと思って我慢してるだけの自分、つまり過去の状況類似の自分から「逃走」し、感情を押し殺さず、決断して、声を発し足を使って、嫌な状況から自力で抜け出すことのできる自分。
全く違うものです。
試したことのない人は、「私は自分の意志で嫌なことから抜け出せるんだ」という気持ちを味わいながら試してみてください。
このワークはパニック障害にも一定の効果があり得ます。
・自我境界の壁を少し低くする
アタマでっかち状態の人は、自分自身を窮屈な道徳観で縛っていることが多いものです。
そのような観念は自然な欲求や自分らしさを押し殺しうつの原因になりますし、他者との屈託のない信頼関係を築くにも邪魔になります。
恥ずかしくて普段ならやらないようなことを少しやってみます。
ほんの少しでもいいことがあったら、アイスでも食べながら、なんでもいいのですが奇声でもあげて歩きます。
面白くないことがあったら駅のホームで「ちくしょ、やってられっか」とか言いながら、足を踏み鳴らします。
少し自分の壁が取り払われませんか。
そんな自分がちょっと可笑しくもありませんか。
感情をストレートに出すと、むしろ自分の感情を客観視(ユーモアの感覚につながる)でき、ゆえに他者の感情も垣間見えるので、他者と自分との距離感を微調整できる自我境界の壁が適切な高さになっていきます。
すると、人間感情に対する的確なアンテナが育つので、人間関係を結びやすくなりますし、それは感情と理性を素早くミックスし、必要ある場合は勇気ある行動に着手しやすくなることにつながります。
・勇気と決断
自分自身の人生を歩むには、いつか必ずなんらかの決断が必要です。
仕事に応募して就職する、一人暮らしをする、などは人生の重要な転換点ですが、それには理性を使った具体的計画と共に、ココロでの勇気が要ります。
ココロにエネルギーが湧いてきたならば、自分のココロと相談したうえで、是非勇気をもって具体的な行動にチャレンジするのがよいのです。
だれかに相談してもいいし、これを読んだからでもいいです。
自らの決断と行動で自分の人生を切り開くことを経験してゆかないと何もはじまらないですが、傷付くことももちろんあるでしょう。
その為にこそ、他者を見極め、自分を大切にする自我境界をつくる必要があります。
その過程がACから大人になるということです。
行動することは人と関わることですから、ココロ揺さぶられる人に出会うこともあるでしょう、そのことの為にも時に勇気を持つことは大切です。
・自己コントロール感
今後、大なり小なり、誰かや組織から理不尽な扱いを受けることもあるでしょう。
その時にも対処策を考え決断して、勇気をもって行動する(アタマとココロとカラダをバランスよく使う)必要がありますが、こういうケースではその行動が二重の意味を持つときもあります。
受けている理不尽さに無意識に萎縮している場合、それは過去のトラウマ状況と類似の環境である可能性があります。
例えば、職場で何か言われも言い返せない、残業を断れない、等は過去の反抗不能な無力感、あるいは自分の感情を表に出せなかった鬱積感と結びついているかもしれません。
それほどカラダはトラウマを記憶しているのです。
そのことに気付いたうえで、「イエス/ノー」の項と同じように「子どものときには出来なかったけど、今はやれているんだ」という意識と共に対処行動をするのは効果的なトラウマ解消にもなり得ます。
また、単なるイエス/ノーに加えて、実際の人間関係のなかでそれを表現してゆくことになるので、このことは対人関係の不信・無力感が元となった情動のダメージを大きく回復させる意味もあります。
このように現実の生活で、自分の尊厳を守り、他者と適切な関係を日々作ってゆくことが、本質的な生きる自信になってゆくのです。
・社会関与
尊厳を守るという感覚に気づくと、自分の生きる価値はどこにあるのか、というような人生の本質的な部分が意識されるようになります。
例えば、もともと繊細なパーソナリティあるいはハイセンスの才能を持っている方もACには多いと思います。
そのことを子どもの頃は表現することなく内に隠し、価値のないものと思っていたかもしれません(なかには発達障害と診断され二重に傷ついている方もいます)。
しかし、それこそがココロがもともと持っている生きる意欲の源泉です。
それが簡単に見つかる人もいますし、そう見つからない人もいます。
それはこの社会の常識を超えた要素ですから、職業とか才能という枠ではないときもあります。
気がついたら足元にあったという場合もあります。
生きる意味を無理やり見出してこざるを得なかったACの方ならではの、既存社会の「常識」に対する鋭い本質的な疑念もあると思います。
それでも私は思います。
自分が存在しているだけでも悪くない、なにかをして人に喜ばれたりしたら、それはそれでこちらも嬉しい。
そういうこと一切合切含めて、自分らしい人間との関わりあいの中で、生きてゆけたら、それでいいのじゃないか、と。
*回復への道は、人それぞれ内容もスピードも違います。怖くないように、自分が心地良いことを最大の基準に、だましだまし取り組むのが安全で確実です。
2018年7月3日