心理系の翻訳本を読むにさいし
心理系の書籍は翻訳されたものも多いです。
特にアメリカで書かれた本が多い印象です。
そういう本は色々と勉強になることも多いですが、内容以前に、人間というものへのスタンスについて、やはり日本やアジアと異なる部分もあると思います。
特に精神的に苦しみを持つ方が自分でそういう本を読む際、若干知っておいた方がいいと思われることがあると思いますので、そのことを書きます。
そもそも西洋は、良くも悪くも個人というものが重視されています。
また、物事をロジックに考えることが徹底されている一方で目に見えない心や自然、理性で説明不可能な現象などに対する受容性は薄いと思います。
これは古代ギリシア、そしてキリスト教の影響がありますから、年季が入っています。
なので、心理的な不具合が起こった原因について、事実やメカニズムなどの詳細に明らかにして、理性で理解していこうとするのが基本的な西洋書籍の姿勢です。
訳本というと、マニュアルっぽい書き方が鼻につく場合が多い気がしますが、それは彼らの価値観として、本を買ってくれた読者に対して、結論に導く道筋をきちんと示して、著者の責任を果たす姿勢の表れとみることもできます。
しかし、こと心の話については、むやみに理論や順番にこだわらなくていい気もします。
親子間のトラウマについての問題でも、
親がこうだった、
そのことがあなたにこう影響した、
いまのあなたにもこう影響している、
そのことをまず理解せよ、
理解したならばここを改善しなさい、
という感じの流れの本が多いです。
読む側にロジック思考がベースにあり、また個人の強さがあるなら、これでいいのかもしれません。
一方、東洋の人は、そこまで徹底的に原因を追求するのかという違和感を持つ人が多いです。
書籍を読んでいるうちに苦しい過去を再現してしまい、読んだことを後悔したという人もいます。
西洋と違い、個人を重視するという文化は東洋には希薄ですから、内面をまともに直視するのはきつい。
事実を列挙したり、筋道をひとつひとつ辿るよりも、目に見えない雰囲気を含めた若干ぼやけてはいるが総体的なアプローチをする。
そして、過去の細かいことは気にせず、今後のことを重視する姿勢があります。
仏教の「諸行無常」、琉球の「てーげー」(いい加減で良いのだという中庸の思想)、タイの「マイペンライ」(気にするなという寛容の思想)が挙げられます。
ですから、個人が自分のことについて詳細に過去に向き合う、という西洋のスタンスは、東洋には直接適用が出来ないと私は考えています。
ふたつ考えられると思います。
まず、過去の分析理論や実例については項目だけ読んで詳細は読まない、もしくはざっと飛ばし読みをする。
但し、その過程で考え方の枠組みだけでも知っておく。
そして、今後どうしたらよいかについての部分を読む。
こちらの文化を基準に本の読み方を合わせる方法です。
もうひとつは、こちら側が、個人の輪郭をある程度明確にもつことです。
端的に、自分のことと本に書いてあることはとりあえず別だ、というクールな視点を持つことです。
こちらの文化基準を書籍よりに補正する方法です。
(もっとも、これが可能になること自体、その人は幾分回復していることの証かもしれませんが。)
人間観の違いがあるかもしれない、という視点を予め持っておくだけで、不用意に傷つく可能性は低くなり、翻訳された書籍から価値のある部分だけを引き出す可能性は高くなると思うのです。
2018年7月9日