心理のよもやま話ーマインドフルネス

マインドフルネス=人間観の違いについて

西洋との人間観の違いについて、若干続きです。

常々気になっていた「マインドフルネス」という用語を入り口に書きます。

 

昨今心理療法にも取り入れられるようになったマインドフルネスの「マインド」とは理性のことです。

心ではありません。

マインドフルネスについての翻訳本を読んで、心と勘違いしている人がいるのではないでしょうか。

 

前回触れた、西洋人が理性から物事にアプローチするスタンスですが、彼らは不可視・不可知な心や人智を超えた現象については、理性で理解不能とみなし、ゆえに存在しないものとして当初は認識しています。

彼らにももちろん感情はありますが、それが(ときに過剰な)個人の個性に混然一体的に直結していて、理性とはまた別の性質を持った奥深い存在=心、とはみなされていないと私は感じます。

 

なので、わざわざ理性をフル稼働させて(マインドフル)、心の存在を見いだし、心の動きをトレースする、そういうことが彼らには新鮮にみえるのだと思います。

 

ちなみに、マインドフルネスの元は、1960年代ベトナムで戦禍激しい頃、東南アジアの仏寺で何年も修行して、瞑想を体得したアメリカ人達が本国に戻り、一般のアメリカ人にも瞑想の方法が伝わるように=直観や洞察ではなく論理的にアプローチできるように工夫した過程で生まれたものです。

それが時を経て、日本という仏教に馴染みのある国に逆輸入されたという背景があります。

 

マインドフルネスと並んで西洋で人気があり、日本に逆輸入されているヨガについての本もたくさん日本で翻訳されていますが、ヨガの各ポーズの形や意味が詳しく書いてあります。

手順ややってはいけない注意事項も随所に載っています。

そこまで意味付けをしなくては気がすまないのか、と正直思ったりもしますが。

 

ともあれ、西洋人個人のなかで心を理性面から追求するのは、西洋人の特質である個人の強さを背景にすれば、一定の意味のあるものになる可能性があると思います。

彼らの真摯な、自らに向ける知性的な追求の姿勢は、東洋人にあまりないものでもあります。

 

かたや、東洋ではもともと心や超自然的なものは視野に入っていますが、個があいまいなので、個が自分の外(家族や会社や世間)に溶け出してしまい、心をしっかり保つ容器が弱い気がします。

個の容器がしっかりしていなければ、せっかくある心の存在を認識するひまもなく、どこかに流れ去ってしまう感じがします。

 

なので、東洋に必要なのは、マインドフルネスよりも個化(パーソナライズとかインディビジュアライズ)というほうが私としてはしっくりきます。

個の輪郭をひとたびしっかりさせれば、西洋人と違いもともとあった心が存在感を表すのは容易いと思います。

 

個の輪郭とは、分かり易く言うと自信です。

 

ところで、ここでの自信とは二重の意味です。

自分を信じる(自己肯定、しっかりした自我境界等)という意味と同時に、

自然(しぜん)につながる自分であるところの自然(じねん)を信じるという意味もあります。

前者はパーソナライズということ、後者は東洋人がもともと持っている融通無碍な心を指します。

 

矛盾するようですが、自分の心をしっかり信じることができれば、心が自分の超えたところに「自然と」伸びてゆくのを感じることができます。

 

7年前あの大震災のときに名も無き多くの人達が、自分個人を超えて他者(=自分の自然(じねん)と繋がった他者の自然(じねん))を助け合えたのは、一番肝心なものを日本人がもともと既に持っていることの証だと思います。

こういうことは理性のアプローチを超えたところにあります、西洋人の言うマインドフルネスを超えたところにあると思います。

 

2018年7月17日