心についてのメモ書きー実存②

生きる意味あるいは無意味

生きている意味は何ですか?という問いになんと答えるでしょうか。

 

一般的には、仕事、家族、子ども、人の役にたつこと、等が考えられます。

では、あなたが存在しているのは何故ですか?にはどう答えるでしょう?

 

上記と同じような答えを返す人が多いかもしれません。

仕事をしているあなたには人として意味があって存在する理由もある。

 

なるほど。

 

では、あなたから仕事がなくなったら、あなたには意味も存在理由もなくなってしまいますか?

 

どうでしょうか?

ぐらぐらと自分が揺れてくる方もいるでしょう。

あるいは、仕事がなくなれば意味はなくなるけど、家族がいれば存在理由というか安心感はある、と言う方もいるでしょう。

いや、それは家族に依存してるだけだ、と突っ込まれたら、ドキリとするでしょうか?

 

では、視野を広げて、

何らかの事情で仕事もない、家族もいない、一見したところ人の役にたつことは何もしていない、という人は、意味も存在理由もないのでしょうか?

 

さらに視野を広げて、

家畜には仕事もない、家族もいない、人の役にたつことも生きている間にはできない。死んで肉になって人間に食べられることが家畜の意味である、存在理由にいたっては希薄である、ということになるのでしょうか?

 

ひとつの解として、仏教には「生きとし生けるもの」という思想があります。

宗教的な理由から肉を食べない人もいます。

 

一方、障害者は役に立たないとして、相模原の施設で殺人事件が起きました。

あるいは数十年前、ユダヤ人が沢山殺され、原爆が一般市民の頭上に投下されました。

***

さて、生きる意味とか存在理由なんてことを考えてるのは人間くらいです。

動物は生きることが即存在理由にみえます、生きる意味については考えてるようには見えません。

あるいは動物は自分の食べる分以上には他の生き物を殺しません。

 

でもやはり、人間に生まれてしまった。

生きる意味はどこかにあるはずだ、存在する理由があるからこそ生まれてきたはずだ。

いやいや、そんなことを考え探すのは途方もなく面倒

だ・・・・。

 

日常生活にどっぷり浸っている自分の泥を洗い流し、こういうことに向き合うのが実存の体験です。

それは仕事での挫折、人生の意味の見失い、誰かの死、災害、事故など、なまの人生の出来事によって向き合わざるを得なくなります。

非常に個人的な体験なのです。

したがい、それに答えを見出すのもその人自身であり、その人の貴重な権利であります。

 

2018年10月16日