生きる意味あるいは無意味(続)
宗教は、生きる意味について一定の解答を提示していると思います。
仏教でいう功徳、
キリスト教では自己犠牲。
それらは、我々を頭でっかちのくよくよ苦悩から引き剥がし、現実に対峙して体を動かすことに向かわせます。
具体的な行為、頭も手足も動かして疲れたりする活動として、現実の人生に身をひたすことを余儀なくさせます。
そうしないと出来ない種類のことです。
水俣病で苦しんだ人達が裁判で勝利し、その後の公害政策に大きな影響を与える。
広島や長崎で原爆の、ヨーロッパでホロコーストの、体験を今も語り継ぐ人々。
真冬、ホームレスの人達に炊き出しを配る。
電車の中で足腰が弱っていて、立ってるのが辛そうな高齢者に声をかけて席を譲る。
要は、自分のことを越えて、他者(人、社会、自然)に関わるのが、人生の意味のひとつのかたちだとしています。
さて、その事自体は構わないのですが、なにゆえに訴訟を起こしてまでそうするのか、なにゆえに無給のボランティアで寒い日に出かけてゆくのか。
その内的な動機がポイントだと思います。
一見宗教は功徳という言葉で、かたちで、目的をすでに提示してしまっているかのようにみえます。
しかし、よくよく考えると、そういう行為=金銭や数量的な目的がない行為を続けることは、よほどのことがない限り続けてゆくことはできません。
どこかで「なんで金ももらってないのに、褒められもしないのに、やらなきゃいけないんだ」となってきて、続かないのです。
逆も真なりです。
会社に毎日行くのはお金のためではもちろんあるけれど、キャリアアップのためだ、自己成長のためだ、と言っていても、結局は会社に翻弄されて多少の経験は積んでも成長はしていなかったりする。
年齢を経れば出世の先も見えてくる、惰性で毎日出勤している。
「お金もらっても、働く意味が感じられない」となってきます。
うつの方にはよくみられる状態です。
内的動機は人それぞれだと思います。
人それぞれであることに、我々が生きるときに拠って立つべき大切なものがある気がします。
本当の意味での人生の目標は、そうそう見つかるものではないのです。
色々な艱難(かんなん)辛苦を経た末に、結果的にゆきつくのがたいがいの場合功徳などの自分を超えた行為だったということに過ぎないのです。
お手軽な啓発書から得られるものの対局に、そういう自分なりの経験を自分のなかに作ってゆく過程こそが生きる意味と言ってもよいのだと思います。
2018年10月23日