心についてのメモ書きー実存④

存在

なにもしていないのに存在しているだけで意味はあると思います。

 

この宇宙に存在するもの各々に意味があると思います。

 

存在している事自体が、すでにこの宇宙に受け入れられた証拠だと思います。

 

我々の人体という、まだまだ未解明の、しかしもちろん完成された小宇宙をみても、無駄な所はひとつもありません。

 

動物は、そういうことを考えないで、産まれ、生き、死にます。

象のように「象の墓場」にひとり赴き従容として死んでいき、猫のように人間の目の見えないところで独り死んでゆきます。

文句ひとつ言わず、存在を全うします。

 

存在することに意味があるのか、などと考えること自体が、人間特有の所有物である理性の「小さなあがき」に過ぎないのかもしれません。

 

もし、そういう視点であえて存在意味を考えるなら、人間を生かしてくれているこの宇宙の存在の方向性を邪魔しないようにそれに沿って生きる、生かされていることに感謝するということくらいの気がします。

 

それを解釈しようとしたのが、宗教の始まりだと思います。

なので、太陽信仰、大地信仰、収穫祭などは宗教の原型なのです。

それを人同士でも適用すると、自己犠牲とか功徳になってくると。

そういう順番だと思います。

 

人間には、生きることを心地よくする(それゆえ生きていられる)工夫が施されています。

食べて美味しい、性の喜び、眠りの安らかさ、喜怒哀楽、愛情や尊厳etc。

そこにはいわゆる「意味」はありません。

ただ、有難くそれらを充分楽しむだけです。

 

そういう日々のなかで、そういう宇宙の法則の範囲で、なおも自分だけの人生の意味を見つけその流れにひたることができたなら、それはまたなんともラッキーなこととして、そこに存在すればいい、という話です。

 

2018年10月30日