心についてのメモ書きー実存⑤

死について

死には、ふたつあると思います。

 

肉体の死。

もうひとつは人生のなかでの「死」的なもの。

 

昔から、戦争や大病を経験した人は強い、と言われますが、それは「死」的なものがその人の人生観を変えるくらい大きなインパクトがあったからです。

 

うつ状態の方が何をしても駄目で、今の状態に絶望することも、今しがみついている生き方の手詰まり感、という意味では大きな衝撃です。

 

あるいは、家族が瀕死の病気になった途端、自分の精神的悩みをすっかり忘れて、家族のサポートに集中する。

 

また、自分がガンであることを知ってから、自分の生き方に向き合い、価値観を大きく変えてゆく人もいます。

 

子どもの時、人の死に直面した体験から、大人になって対人援助職を選ぶ人もいます。

 

死的な体験は、その人にとって、日常や一般常識、思い込みなど些細なことを後退させ、その人にとって大切なことを全面に押し出してくれるきっかけとなります。

言い換えますと、それくらいの衝撃がないと、おいそれと人間は変わらないということなのです。

 

ところで、死の何がそこまで人を変えるのでしょう?

 

・死自体が分からない、受け入れ難い得体のしれない怖さ?

・自分がもう存在しないという不気味さが想像できなくて怖い?

・死んでゆく際の肉体の痛み苦しみ?

・ひとりで死ななくてはいけない孤独の恐怖?

・忘れ去られることの寂しさ?

 

私にはこれらのどれもが「死」的体験には包含されていると思います。

どれもアタマだけで考えて、はい分かりました、とはゆきそうもありません。

とても重たい世界にみえます。

 

それでも、こういう死に近い死を体験することで、死を半ば受け入れているのではないでしょうか。

死を見ないように見ないようにしているからこそ、日常のはっきり言ってどうでもいい人間関係やお金の心配に思考を向けることができるのでしょう、あるいはそこに逃避できるのでしょう。

死を半ば受け入れることでこそ、生の有り難みや希少性がはじめて分かるのです。

 

死までいかなくても、似たような体験で、よくみられる現象に「失ってみてはじめてわかる」というものがあります。

これは厳密にいうと、「生」的な人やものを失うことではじめて、自分にとって大事なことが分かる、そして大事なことなしで生き死んでゆくことへの虚しさや恐怖が喚起されるのです。

こういう混乱からうつ状態になる人もいます。

 

これらのことを自分の身をもって経験することは、現代の日本ではそう多くない気がします。

それだけ、生き物から離れてしまっているということなのでしょう。

 

2018年11月9日