心についてのメモ書きー実存⑨

孤独について

人間は、生まれた瞬間から孤独です。

ひとり生き、やがて老いて、死ぬゆくことは明白な現実です。

 

それで、孤独に耐えられるように母親からの世話と情動の交流がまず必要となります。

生まれたばかりの時期は、一時的に子供にとって、母と子供の区別がつかない共生期であるにしても、いずれそこから離れる必要があります。

 

共生期(0歳)から母子分離(1〜2歳)を経て、言葉を覚えて他者への意識が明確になり(3〜5歳)、やがて親をも他者と見始める思春期(10代前半〜中半)に至る、そして、親元を離れ自立してゆく(20代以降)。

孤独ではないんだ自立なんだと思ってみても、孤独に生きてついに死ぬ事実は変わりません。

 

ここで、私は孤独は悪いもの恥ずかしいものだという俗説は省みていません。

孤独の実態を見ようとしています。

 

40歳を過ぎると、意外に人間同士って、長くつきあってもお互いわからなかった面があることに気付いたりして、全面的には理解し合えないものなんだということも経験的に分かってきてしまいます、孤独です。

 

言い換えると、部分的な相互理解があればそれでよしとする妥協なり諦めが生まれてきます。

これを口当たりのいい言い方ではお互いの個性の尊重とか言ったりします。

 

年老いて呆けてしまった親と接したりすると、子供の頃視野いっぱいに見えていた親が、今では視野の片隅に小さくなり、その分親キャラクター以外の部分のその人本来のキャラクターに気付いて、初めは昔と今との落差に戸惑い、怒り、やがてやはり妥協や許しや感謝の気持ちをもったりします。

 

人間は変わるものです。

仕事や家族や事故災害等環境の変化に応じて変わり、肉体の衰えに逆らえず変わらざるをえないのが宿命です。

 

変われない人、孤独に向き合えない人が精神的な苦悩を抱えます。

ですが、いずれは孤独を実感します。

どうみても、どう考えても、孤独です。

 

なので孤独は特別でも恥ずかしいものでもなく、淡々とした現実です。

 

しかし、孤独を直視した後には、ある種の他者への諦めが生じ、その諦めから、完璧を目指さない寛容な心をもてるようになる。

同時に本来の自分をも受け容れられるようになっていく。

そこに本当の意味での理解・共感・つながりが見えてくるのだと思います。

 

2018年12月28日