精神症状の構造と回復(6)ー症状の深さ⑤

1.症状の深さ⑤ー人間の子供ということ

先日テレビをつけたら「はじめてのお使い」をやっていたので、少し見ていました。

それでつくづく改めて思ったのは、人間の子どもというものは親を=他者を「助ける」生き物なんだなということです。

 

助けるといっても、幼児ですから、親を十二分に満足に助けることの出来る「事実」はあり得ないわけです。

そこには、親を助けようと必死になる、懸命にやってなんとか親の喜ぶ顔を見たい、そしてそれは自分の安全感(安全基地の形成)にとって非常に大きなことなんだ、そういう「心的現実」があります。

 

そういう子どもなりの必死な気持ちが裏切られたりすれば、それはなんらかの傷が残るだろうな、そんなことを思いながら番組を見ていました。

 

ところで番組の趣旨は、おつかいを成し遂げることで子どもの成長や自立につながる、ということと推測しますが、小学生前の幼児をある意味孤独に向き合い不安を感じざるを得ない過酷な状況に恣意的に置くのはいかがなものか、と少し感じました。

*5歳になるとカメラに気づいてしまうので、4歳迄の子どもに限定して出演募集している、とネットには載っています。

(同様の感じを、かなり高齢のお年寄りがクイズに回答し、それをタレントが見て爆笑するという番組でも感じましたが。)

 

おつかいを終えた子どもは例外なく、親に迎えられると安堵して泣き出します。

成長のための冒険を終えた満足感とは私には思えませんでした。

 

ある女児は、おつかいの途中、道端で眠り込みました。

この眠り込むという行為は、後日述べる「防衛」という精神的働きのうちの「退行」だと私は感じました。

 

防衛的な退行とは、恐怖や不安を感じた時、それに向き合えるくらい心が強くない人は、恐怖や不安そのものを見なくて/感じなくていいようにするため、乳幼児期に退行するということで、この場合で言えば眠り込むわけです。

もちろん本人にしてみれば、乳幼児「的」でなく、幼児そのものとしての真っ当な自己防衛手段をとっているに過ぎませんが、それをせざるを得ないほどに、本人にストレスを、テレビ制作上の都合でかけているのではないか、そんなことを私は思っていました。

 

さて、テレビ番組の話はさておき、現実の世界で、頑張っておつかいをしてきても親が無反応だったら?

買ってきたものが間違っていて、そのことだけ叱られて「ありがとう」の言葉もないとしたら?

子どもは、親を満足させるために色々なことを「一生懸命」考えるでしょう。

 

その極端な例が昨年亡くなった女の子の「一生懸命字を練習しますから、許してください」です。

そういう意味で、無力度が高い人生早期に、家族というクローズされた環境ゆえ繰り返される親との関係(心的現実あるいは現実)に応じて、精神症状の深さや重さが大きく左右されてくるのです。

 

2019年2月19日