精神症状の構造と回復(7)ーコラム①

<コラム①>ひとがカウンセラーになる動機

次のテーマに行く前に、閑話休題です。

人生、無駄があってこそ豊かになりますし。

 

先日私は、たまたま近くに用事があったついでに、二十数年ぶりに卒業した大学を見てきました。

 

すると、大学の敷地が以前の記憶と較べてかなり小さく感じました。

久しぶりの土地に来てこういう感じを持つことに覚えがある方もいるのではないでしょうか。

 

学生時代、就職をしなければいけないという未知の世界への不安を抱えていた頃、大学は大きく感じ、歩くのに疲れたのを覚えています。

今回はと云いますと、おしゃれだけどこじんまりとした澄ました、はっきり言うと面白くなさそうな所だなと思いました。

 

そう思った理由は今では分かります。

 

いい大学→一流企業という「人生幸せコース」とでも言うべき当時抱いていた幻想(心的現実)が今では全く無くなっている。

そういう心的現実の変容に応じて外界への認識も変化した、あるいは事実をありのままに見れるようになった。

 

そういうことだと思います。

 

心的現実は事実より優先され、ゆえに個人個人の認識と直結している。

その心的現実が幻想ならば必ずや破綻がくる。

幻想を自分の意志・思考だと思い込んでいる自分に自分で気づかねばならない。

でも、そういうことに気づくには私の場合長い年月を要しました。

 

ところで、私の知る限り、医師、臨床心理士(公認心理士)それ以外の資格保持者、無資格者等を全て含め、カウンセリングという仕事を生業として確立している人には、共通点があると思います。

 

それは、かつて自らが精神的な問題を抱えていて、その問題が大きかった(あるいは今でも大きい)のでそれに取り組んでいた(いる)、あるいはなんらかのきっかけでその問題の変容を経験しているということです。

 

まず何より自らの悩みもしくは関心の対象として、人間の心の世界ひいては人間の営み全般に強い興味が、心的現実としてあります。

それくらい自らを突き動かす、動かさざるをえないエネルギー、あるいは執念があるということです。

 

これは資格には関係ありません。

むしろ資格さえとれば安泰だという人にはカウンセリングは出来ない。

心の世界への扉は、極めて個人的な主観的な経験からくる生の雰囲気をもったモチベーションなので、資格試験の一般化した知識とは相い容れないものです。

 

自分で自分をとことん悩んだ、それで色々必死に調べたりして、カウンセリングにたどり着いて自己変容したり、宗教の実践のなかに、あるいは大自然のなかに本当の自分を見出したりした。

その過程で、自分が本来の自分として生きられない不自由さ、みじめさをいやというほど身をもって知っているし、本来の自分を生きる歓びの可能性を感じている。

 

しかし、その自分の経験がそのままではカウンセリングに適用できないので、勉強し実践で腕を磨きます。

良き先達に出会えれば、生の実践にじかに触れることで、理論とカウンセリング感覚やプロとしての「中立感覚」を身に着けていきます。

 

それでも、やはりなんといっても自らの経験が核となり、カウンセラーは対応する分野を選び、自分なりのやり方を作っていきます。

カウンセリングの方法は、カウンセラーの数だけある、ということです。

 

2019年2月26日