精神症状の構造と回復(13)ー構造⑥

2.構造⑥ー主要な防衛(引きこもり)

防衛としての引きこもりは、世間一般で言う「引きこもり」と完全に同じ意味というわけではありませんが、似ているところもあります。

 

防衛的な引きこもりとは、自分の世界、自分だけの幻想に引きこもることで辛い現実(もしくはそう思いこんでいる心的現実)から逃避することです。

自閉的ファンタジーとも呼ばれます。

 

その辛い心的現実とは、信用したかった他者(親)を信用できなかった侘しい感情であり、そこから他者と親密に関わることへの怖れに向かいます。

「非親密」の方向へ向かうのです。

 

生きるためには食べ排泄する、最低限の入浴をする等の現実の身体的行動をせざるを得ないのに、自分の世界に閉じこもることは、ある意味、現実世界に居る自分とファンタジーの世界の自分とで遊離する=心身と頭が分離する感じがあります。

 

すると、なにか傍観者的態度ともいうべき、現実の自分をもうひとりの自分が見ているような感覚になってきます。

周囲の人にもどこか超然とした反応の薄い人だなという印象を与えます。

 

ネットや漫画等の活字世界、アニメやゲーム等の映像世界等、いずれも人工的もしくは固定的なものの世界=頭が得意とする世界に閉じこもるだけの生活になりがちです。

フレッシュで日々予測のつかない他者との関係に開かれてゆくことに尻込みします。

 

病的な度合いを弱めて引きこもり防衛を用いる方は、会社で仕事を「そつなく」こなし、上司や同僚へのあいさつや会議等コミュニケーションも問題ない。

けれど、夕方飲みに誘われれば、飲みに行くことの楽しさを考えるより、飲みに行くのを断ることで今後どんなデメリットがあるのかをまず考える。

 

つまり、基本は引きこもりなのですが、食べていくためにやむを得ず会社に来ているから、会社に居続けるためのスキルは身につけている、でもその他のことにまで心をひらく状態にないわけです。

表面上は社会適応しているので「同調的引きこもり」と言ったりします。

私は、一定割合の日本のサラリーパーソンはこの状態にあると思っています。

 

彼らも心の底では他者との親密な関係を強く欲しています。

ですが、時にはその欲望を適切な人間関係において表現するのが困難なために、自傷行為、摂食障害等によって生きている実感を確認せざるを得ない方に向かってしまいます。

適応障害等と大雑把な診断をされている人も多数いると思います。 

 

また、親しい人間関係を築こうと思っても、「ヤマアラシジレンマ」と呼ばれる、相手に近づき過ぎると親密になりたい潜在的渇望が強いゆえに相手を束縛したり(近づき過ぎてヤマアラシの針で相手を傷つけてしまう)、そのことで相手から拒絶されると元の孤立した、人間関係に距離を置いた他者を信用できない自分に戻ってしまう、ということもあります。

 

ところで、このような人たちがファンタジーの世界を磨いていって、それを創造性・オリジナリティあるものにすることもあります。

現実社会と距離を置いているからこそできる、現実を鋭く切り取るセンス、現実の次元を変換して見ることのできる詩的感覚、批評精神が出てくることもあります。

そこから本当の他者との関わりに入っていくことが可能です。

つまりオタクのことです。

 

防衛としての「引きこもり」がベクトルが内に向けられる感じは、「取り入れ」と似ていますし、取り入れと引きこもりが併用されることも多いと私は感じます。

最初は引きこもり、後に取り入れを用いるという場合がしばしば見られます。

通常は引きこもり、大きな不安を喚起される時に投影や否認を用いるという場合もあります。

 

ご存知のように、日本では今(一般的な意味での)引きこもりの人がたくさんいます。

防衛としての引きこもりと事情は全く同じではないのでしょうけど、止むに止まれず自分を守る(防衛)ための引きこもりは相当数いると推測します。

 

引きこもりを考えるに、上手に引きこもることを可能にする文明的要因(都市生活、ネット環境等)と他者と議論する等自己主張しないで大人しくやっていこうという民族・文化的要因の大きく2つが考えられ、日本人の誰しもが多かれ少なかれ持っている側面なのかなと思います。

 

2019年4月9日