精神症状の構造と回復(28)ーコラム③

<コラム③>映画「運命を分けたザイル」

先日のコラム②では、カウンセラーもカウンセリングを受けるものなんだ、理屈でなく体感でクライアントの感覚を我がこととして感じるようにするんだ、そして自分の内的感覚や特有の癖などを感じとれる度合いが増せば、そのままクライアントの悩みをより感じ取れることにつながるんだ、こんなことを書きました。

 

また先日、私佐藤がカウンセリングを受けていた時、自分の過去や内面を辿るイメージをある映画になぞらえて自由連想していまして、自分自身でもこのことが印象に残ったので、映画の紹介がてら、内面を辿るクライアントの旅にも思いを重ねてみたいと思います。

 

映画「運命を分けたザイル」は南米のシウラ・グランデという高山に挑んだジョーとサイモン二人のクライマーの話です。

 

頂上登山に成功した二人ですが、下山を始めたばかりの時ジョーは高度6000メートル付近の断崖絶壁で片足を骨折してしまいます。

その高度しかも気温は零下数十度、そんな雪山での骨折は即、死を意味しますが、サイモンは単独でジョーを救助しようと試みます。

 

救助は最初はうまくいきましたが、ある時ザイルにかかるジョーの身体の重みに引かれ自らも滑落しそうになり、サイモンはザイルを切断します。

ジョーはクレバスの中に転落していってしまいます。

 

ここからがジョーの長い長い苦難の始まりです。

 

クレバスの中で意識を取り戻したものの、ロープを切られたと分かった時の戸惑い、孤独感、自分への苛立ち、死を目前にした絶望感。

そして、僅かな望みを託し、激痛を抱えたまま生き抜くための行動を開始する、意志を奮いたたせて。

 

このあたりの心境は、悩みを抱え、誰に言うこともなく理解もされず、ひとり彷徨う人間を連想させます。

それでも、なんとかしようとして、工夫をするが骨折した足(=傷ついた心)を抱えたままなので、思うように進めない。

 

途中、もうだめだ、十分頑張った、もうしようがない、と諦めてジョーは進むのをやめようとします。

もしベースキャンプに戻れたとしても、転落から何日も経っている、自分は死んだと思ってサイモンはもう去っているだろう、そうしたらもう・・・・。

そんな時、頭のなかから「駄目だ、進むんだ!」という声を聞き、もう一度重い身体を起こし、ジョーは進みます。

 

この声はクライアントに置き換えればクライアントの中の「本来の自己」の声であり、カウンセラーはそんな声に敏感であらねばなりません。

 

実話を再現した映画です。

実話の張本人たちも語り手として出演します、自ら当時の心境を語るのは、やはり実感がこもっています。

 

映画は、単純にハッピーエンドで終わるわけでもなく、こわいと思う方もわりと多いと思います。

私としては、人間が自分にひとりで向き合い、孤独に生きてゆくことのリアルさ、自分の足で進むことの尊さ、何かと共に進み誰かに受け止めてもらえる慈しみ、そんなことが象徴的に描かれている、得難い作品だと思っています。

 

ちなみに、雪山という見た目の寒さ、涼しさから私は毎年夏に見ることにしております、です。

 

2019年8月23日